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【サンプラザ中野】オールナイトニッポンと「大きな玉ねぎの下で」 1985-1987

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【田村正和】1番カッコよかったのは「夏に恋する女たち」1983

僕の時代の二枚目俳優といいますと、間違いなく最初に田村正和さんの名前が挙げられます。では、そんな田村さんが「1番かっこよかった時期」とはいつなのか? 今日はそんな噺です。

「ニューヨーク恋物語」の田島?
これは田村さん本人も気に入っているという1988年の「ニューヨーク恋物語」の「田島雅之」です。「元エリート商社マンのバーテンダー&裏の世界に影響力を持つ謎の男&モテモテ」という田島。その役作りに田村さんは珍しく色黒に肌を焼いてきておりました。実際にドラマでも「田島」は、ただならぬムードを醸し出しており、僕は「これだよ!田村正和はこれなんだよ!!」と一人で熱くなっておりました。
しかしこの田島。ドラマ前半のミステリアスっぷりとは裏腹に、実にあっさりと仲間に裏切られ (裏の世界に精通する凄腕という設定はどこに行った?)、なんとホームレスになってしまうのです。それがあまりにも急展開でして、僕は一気に失望してしまいました。さらにはドラマそのものの終わり方というか、田島の終わり方も個人的には不完全燃焼気味でしたので、僕はこのドラマの田島を「一番カッコいい田村正和」だとはどうしても思えないのです
「夏に恋する女たち」の倉橋光男
そこで僕が一押しするのは1983年にオンエアされたTBSドラマ「夏に恋する女たち」の「倉橋光男」ですね。この当時の田村さんは40歳になろうという頃で、元来のとてつもなく甘い顔立ちに加えて、40という年齢なりの渋さがくっきり表れ始めておりました。もうそのブレンド加減は最高という感じでありまして、イケメンぶりたるや半端なかったのです。
「夏に恋する女たち」とは?
「夏に恋する女たち」は1983年に制作された都市生活のシングル族を描いた群像劇です。六本木の高級マンションの最上階に住む6人を軸に物語は動きまして、互いが互いに干渉しないライフスタイルだった彼らが、ある事件をきっかけにだんだんと関わりを持ち始めるようになり、最後には不思議な友情関係を構築していくようになる…というお話です。
登場人物倉橋光男(田村正和) 第一線の一流フォトグラファー。離婚歴があり、女性に対して少し冷めた視点を持つ。
浅見遥子(名取裕子) 光男とポスターの仕事をコンペで争う新鋭イラストレーター。過去の出来事から男性不審になっている。
水島大介(原田芳雄) 引退がチラつくベテランホスト。幼年期に母親を亡くしたト…

【ねるとん紅鯨団】バブル期を彩った素人参加お見合い番組 1987-1994

バブル期の特徴の一つとして「恋愛に積極的」というものがありました。そんな時代に生まれた「ねるとん紅鯨団」は、司会のとんねるずの勢いとともに、時代を彩る名物番組へと成長していったのです。今日はそんな噺です。


当初はお見合い番組ではなかった1987年に始まった「ねるとん紅鯨団」は、開始当初は「とんねるず」が様々な企画に挑むマルチバラエティ番組であり、「お見合いパーティー」は、その企画の中の一つにすぎませんでした。しかしながらそれが大変好評だったことから、番組開始後5か月過ぎたころから、この番組は「素人参加のお見合い専門番組」になっていったのです。
元ネタとなった前番組「上海紅鯨団が行く」
僕も当時はとんねるずの大ファンであり、この番組も欠かさず視ていたはずなのですが…しかしながら、この「お見合いパーティー以外の様々な企画」というものを、たったの一つも覚えていないのです。今やそんなものがあったこと自体が、とても不思議な感じがしますよね。

番組内容さてさて実際の番組ですが、これはタカさんチームとノリさんチームに分かれておりまして、それぞれ毎週交代で一般人参加者のお見合いパーティを収録してきます。その映像を見ながら、とんねるずと毎週スタジオに登場する日替わりのゲストが、その素人集団のカップリングを、あれこれ言いつつ見守るというスタイルのものでした。
タカさんチェック
男女の御対面の前に、タカさんが女子の参加者をチェックするものです。タカさんはその際に(当時花形の職業だった「イベントコンパニオン」に対して「コンパニャー酒井」などと)素人の参加者に印象的なあだ名をつけていました。
第一印象男女の御対面→自己アピールタイムと続いた後に、とんねるずが参加者に「第一印象の好み相手」を小声で伝え聞きます。それがフリータイム中に情報として伝えられることで、番組を見ている側も、パーティーの様子に感情移入できるようになっていました。
フリータイム
この時間の間に、いかに意中の相手と「ツーショット」を決めれるのかが重要でした。うまく周囲に溶け込めない人間には、「そして〇〇はひとり、ひとり!、ひとり!!」と、ワンショットのズームアップで晒しものにされるという、あまりにも厳しい演出もありましたね。
告白タイム
たまにある「女子からの告白大会」を除けば、基本的に男子が女子の前まで走っていって、お願いする形で告白するという…

【ナイツ NiGHTS into Dreams...】夢と勇気と優しさ SEGAサターンの超名作 1996

1994年11月に、当時の次世代ゲーム機である「SEGAサターン」を発売されました。その際に大きく注目されたのは、名作「ソニック・ザ・ヘッジホック」を生み出した「SONICチーム」が、この新しいゲーム機で、どんなゲームを発表するのかということでした。今日はそんな噺です。



SEGAサターン発売


SEGAのゲーム機「サターン」は1994年の11月に発売されました。そして本体の発売と同時に、ローンチタイトルとして、人気アーケードゲームの「バーチャファイター」のサターン版も同時発売されました。この「バーチャファイター」は、鈴木裕氏率いる「AM2研チーム」が制作したもので、当時は「家庭用ゲーム機への移植は困難なゲーム」とささやかれておりました。それゆえそれが実現出来たことが大いに評判になり、ゲームは70万本を超える大ヒット作となりました。


一方、SEGAのコンシューマーゲームを代表する「ソニック・ザ・ヘッジホック」シリーズを作り上げた「中裕司」氏率いる「SONICチーム」は、ゲームの発表どころか、ゲーム開発のアナウンスすらしておりませんでした。


それゆえゲーム雑誌では「ソニックに逢いたい!」という特集が組まれ、SONICチームへのインタビューが行われたりしましたが、そこでゲーム開発の具体的な証言が成されることはなく、その後、一年ほどは全く動きがありませんでした。



新キャラクター「ナイツ」SONICチームからゲームの開発が発表されたのは、サターン本体が発売されて1年半近く経った1996年の春の事でした。それもソニックのゲームではなく、「ナイツ」という全く新しいキャラクターのゲームだったのです。

「ナイツ」は道化師のような造形に加えてメインカラーは紫という、これまでの「主人公キャラ」の概念を打ち破るデザインがされておりました。さらにはゲームジャンルは「新感覚フライトシミュレーション」という未知のものです。正直、そのゲーム性などは見当もつかない状態でしたが、あのSONICチームが自信をもって制作しているとのことなので、否が応でも期待は高まっていきました。
吉野紗香さん主演のTVコマーシャル。このCMも名作ですね。
ナイツ公式トレーラー[ナイツ] あなたが、「悪夢の世界」に迷い込んだら、ナイツを思い出して下さい。自由気ままに空を飛ぶナイツ、優しく微笑むナイツ、そして悪夢の支配に挑むナイツ・・・。Ni…

【ビョルン・アンドレセン】史上最高の美少年『ベニスに死す』 1971

美少年の代名詞として半世紀余りも君臨し続ける「ビョルン・アンドレセン」。今日はそんな彼の伝説の映画「ベニスに死す」を振り返りながら、名匠ルキノ・ヴィスコンティ監督が求めた「究極の耽美の世界」についての噺をしていきます
タッジオ以前のビョルン・アンドレセン彼は1955年、スウェーデンのストックホルムで生まれました。幼年期に父に捨てられ母が自殺するという、あまりに過酷な生い立ちを持っています。その後、祖母に育てられ、音楽学校に進学したのちロックに傾倒。14歳の時に祖母の勧めで子役としての活動を始め、『純愛日記(スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー)』の端役で銀幕デビューします。

たった3分程度の出番でしたが、美少年ぶりは半端なく、この経験が次につながっていくのです。
タッジオを求めて1970年、ヴィスコンティ監督が『ベニスに死す』の映画化の為に、主人公の作曲家を虜にする少年タッジオ役を求めてヨーロッパ中を探しておりました。その時のオーディションの模様がこれですね。これは『タッジオを求めて』というイタリアの公共放送の30分番組になっています。

ヴィスコンティ監督は文句ばっかり言ってますが、明らかに喜んでいますね。そんなわけで数千人の候補者の中から最終的にアンドレセンさんがタッジオ役に決定しました。
「ベニスに死す」とは?原作原作はドイツの作家トーマス・マン氏の同名小説です。これは彼がヴェネチア旅行をした際に、実際に出会ったポーランド人の少年を描いた小説で、完全に実話に基づくものでした。ちなみに原作では「初老の作家と美少年の出会い」が描かれておりますが、それは映画では「初老の作曲家」に変更されています。
映画のあらすじ
ドイツの高名な老作曲家アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)は静養の為に赴いたベニスで、究極の美を体現したような美少年タッジオ(ビョルン・アンドレセン)に出会う。ゆるくカールした金髪と澄んだ碧眼の瞳。まるでギリシャ彫刻のようなタージオにアッシェンバッハは次第に心を奪われてゆく…。
主な宣伝文句
『ただひたすらに美しい、愛と死の一大交響詩』 『壮麗な水の都を舞台に巨匠ビスコンティが描き上げる究極の「美」』 『美は滅びない』
マーラー作曲「アダージェット」
映画であまりにも印象的に使われている音楽は、マーラーの交響曲第5番の第4楽章「アダージェット」です。少年タッジオの儚い完全性というも…

【サッカーW杯1990イタリア大会】史上最低と呼ばれた退屈なワールドカップ 1990

日本のバブル期に行われた『サッカーワールドカップ1990イタリア大会』は、「史上最低のワールドカップ」と世界中から酷評された大会でした。では何故そうなってしまったのか?今日はそんな噺です。


話題にならないW杯サッカーW杯イタリア大会が行われた1990年。僕は当時、歌舞伎町のライブハウスで働いておりました。それでちょうど深夜の始発待ちの時間に、ワールドカップの生放送とデイリーハイライトをやっておりましたので、僕も熱心に見ておりました。そして今ならば、サッカーのワールドカップが行われているなんて時期には、日本中が「ワールドカップだ!」「サチモスだ!」などとハートビーに盛り上がるものですが、Jリーグ発足前だった当時は、あまりワールドカップ熱が盛り上がっておりませんでした。

記憶に全く残らぬ日本代表この大会。日本代表は予選落ちで出場できませんでした。まあそれは仕方のない事ですが、自分でも驚くのは、この時の代表の試合というものを、本当に何一つ、全く覚えていないということなのです。
その前の「1986年メキシコ大会」の予選は「木村和司の伝説のフリーキック」の時で、W杯初出場を目指し、韓国に最後まで食い下がった試合を僕もはっきりと覚えています。


それで「1994年アメリカ大会」となると、これはもう例の「ドーハの悲劇」の時ですからね。これはもう忘れようにも忘れようがありませんよね。

しかしその間のイタリア大会の予選…結果を見てみると、格下の香港やインドネシアと引き分けを繰り返し、最後は平壌で北朝鮮に負けて一次予選落ちだったみたいですね。そこには井原選手や松永選手や水沼選手や黒崎選手といった「Jリーグ黎明期の選手」がメンバーに名を連ねています…が、うーん、マジで記憶なしです。予選が行われていた1989年は僕は予備校生時代でしたから、こんな典型的な負け戦に乗れなかったのかもしれないですね。
南米はドロドロ記憶に残らぬ日本の予選と違って、南米の予選のドロドロぶりは実に印象深いものでした。
チリがインチキ行為で2大会資格停止

まず大騒ぎになったのが後に「ロハス事件」と呼ばれるチリのインチキ出血事件ですね。これはワールドカップ予選の「ブラジル対チリ」において、劣勢だったチリが「ブラジルサポーターの投げた発煙筒が当たり、キーパーのロハス選手が負傷出血する羽目になった」と抗議しました。そこで試合がいったん打ち…