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6月, 2020の投稿を表示しています

アーノルド坊やは人気者【都会では誰も知らなかった】「冗談は顔だけにしろよ?」1978‐1986

僕は『地元ではゴールデンタイムの人気番組だったのに、上京して他の人に話をしたら、誰もその番組を知らなかった』という不思議な経験をしたことがあります。今日はそんな番組の噺です。 『アーノルド坊やは人気者』とは? 『アーノルド坊やは人気者』は1978年から1985年年まで、アメリカのNBCテレビで放送されたシチュエーションコメディ(『ファミリータイズ』や『フルハウス』のような舞台形式のTVドラマ(別名『シットコム』)です。 ストーリーは 白人の富豪層の家庭に、黒人の孤児の兄弟が引き取られ、そこで白人の娘と共に一緒に暮らす というものです。 基本的には面白おかしい爆笑コメディーなのですが、物語のコンセプトである人種間の問題を根底に、ドラッグや身体障害など、当時の若者を取り巻く深刻な現象を、ライトタッチな演出の中に巧みに取り入れおりました。番組はそういう面からも評価を受け、シチュエーションコメディーとしては異例とも言える長期の放映となりました。 ※オープニングムービー 登場人物 アーノルド(ゲーリー・コールマン) この物語の主役であり、物語の進行役的な側面も持っている黒人の子ども。幼い年齢設定でありながら、周囲の大人対して非常にシニカルな目線を持っていて、決めゼリフは 「冗談は顔だけにしろよ?」 である。 ウィリス(トット・ブリッジス) アーノルドのお兄さんでアーノルドのいじられキャラ。皮肉屋のアーノルドと異なり、彼は真っ直ぐな正義感であり、加えて運動も得意なので女子にモテる。 彼女役として幼き日のジャネット・ジャクソンが準レギュラー出演 していた。 ドラモンドさん(コンラッド・ベイン) 亡くなった家政婦の子どもだった2人を引きとり、愛情を持って育てている白人の大富豪。メンバーの中ではボケ役担当だが、時に経験に即した含蓄のあるお説教で子どもたちを諭す。 キンバリー(ダナ・プラトー) ドラモンドさんの娘。 容姿端麗で成績優秀というヒロイン系のキャラ だが、ときおり天然行動で笑いを取る。ウィリスとはあくまで姉弟の関係に終始しており、恋愛関係には至らない。シーズン後期は『フランスに留学中』として不在。 サム(ダニー・クックシー) キンバリーと入れ替わる形で登場した白人の子ども。ドラモンドさんの再婚相手の連子で、アーノルドよりも年下の設定。シーズン末期は主役級の扱いで、物語は彼の成

サディスティック・ミカ・バンド【伝説であり続けた伝説】1973‐2008

僕は1970年生まれなので、音楽的なオリジンはニューミュージック期になります。それゆえに1970年代初頭の「Jロック創成期のロックバンド」というのは、もうその時点で伝説の存在だったのです。今日はそんなバンドの噺です。 1980年代中盤から日本の若い世代でバンドブームというものが盛り上がりを見せていきます。その中で日本産ロックの基となった1970年代初頭の『はっぴいえんど』や『サディスティック・ミカ・バンド』というバンドに対する評価は、その後のメンバーの活躍とともに『伝説のバンド』として、どんどん神格化されていったものでした。特に海外でライブツアーを行った実績のあるミカバンドは、メインボーカルだったミカさんが(当時は)その存在を消していたことなどもあり、より伝説の度合いが高まっていた印象があるのです。 サディスティック・ミカ・バンド 第1シーズン【Sadistic Mika Band】 加藤夫妻の結婚からバンド結成まで 加藤和彦さんの大ファンだった福井ミカさん(当時高校生)が、加藤さんのコンサート後の楽屋を「ギターを教えてください」と訪ねた事がきっかけで、2人の交際が始まったそうです。その後、順調に愛を育まれて、1970年に2人はめでたく結婚されました。 当時の加藤さんはフォーククルセイダーズ(これもまた伝説のグループ)解散後のソロの時期でした。しかしソロではあまり本人の想定したような音が作れず、次第にバンドスタイルでの活動を望んでいくようになっていたのです。 1971年の暮れに、加藤さんはスタジオミュージシャンだったつのだ☆ひろさん、高中正義さんとともにバンドを結成することになります。しかし凄腕揃いだったために、皆のプライドも高く、それゆえ 『上手く行かなかった場合のいいわけ』 になるように、そのメインボーカルには、あえて音楽的素養が皆無であったミカさんをキャスティングしたのです。それゆえミカバンドは 当初 は『コミックバンド』という枠組みでのスタートだった のでした。 バンド名の由来とメンバー バンドの名称の由来は 『ミカさんの料理時の包丁の扱い』 からきているそうです。要は彼女の包丁さばきがあまりにもサディスティックだったため(時にまな板に包丁を突き刺しっぱなしだった事もあるという)、そこからオノヨーコさんの『プラスティック・オノ・バンド』をもじって『サディステ

風魔一族の陰謀【ルパン三世】衝撃のキャスト交代事件 1987

『ルパン三世』はアニメ版放送開始から半世紀を迎えようとしています。さすがに時は流れたもので、2020年現在、放送開始時のオリジナルキャストは次元大介役の小林清志さんのみとなってしまいました。 ここで第2シリーズ以降の『 ルパン三世のキャスト交代』というものを振り返ってみますと、 まず挙げられるのは 1995年の山田康雄さんの逝去時の栗田貫一さんへの主役交代 ですね 。この時は映画『くたばれノストラダムス』の公開が迫っている状況でしたので、急遽代役を務め上げた『物真似名人』の栗田さんの熱演は大いに称賛され、山田さんの後継ぎとして自然に認められたのです。 そして記憶に新しい 2011年の『五右衛門、不二子、銭形の声優交代劇』 の際は、この時点で既にアニメ化から40年が経っておりましたから、そこには『さすがに交代もやむなし』という肯定的なムードが漂っておりました。 栗田さんが就任した際の 「徹底的に山田さんを真似をするだけです」という言葉を持ち出すまでもなく、ことルパンに限らず、人気アニメの声優交代は『 オリジナルメンバーのイメージ」というものに、通常はある程度寄り添う形で行われるものです。 しかし過去に一度だけ 『人気アニメの声優陣をイメージごと総取り替えする』という大事件 が起こった事がありました。 しかもそれがあろうことか、件のルパン三世において行われたという… 今日はそんな噺です。 ルパン三世のキャストが一新 時は1987年。僕が高校2年生の頃 「ルパン三世のキャストが一新される事になった」 という衝撃的な情報を持ってきたのは、クラスメイトのアニメオタクでした。その 「反対の著名活動が始まっているんだ。回ってきたらお前も頼むよ。大ファンなんだろ?」 という差し迫った言葉からは、その交代劇が『動かしようのない決定的な事実』なのだという重い空気が滲んでいました。 その後、程なく彼は『ルパン三世の新キャスト』を掲載したアニメ誌を持ってきました。そこに挙げられていたのは 『ルパン三世 風魔一族の陰謀 』 ルパン 古川登志夫(諸星あたる) 次元  銀河万丈(なんでも鑑定団ナレーション) 五エ門 塩沢兼人(ぶりぶりざえもん) 不二子  小山茉美(則巻アラレ) 銭形  加藤精三(星一徹) というあまりにも斬新な 面子でした。 いやはや…それぞれの声優さんに恨みはないですが、これ

バンバンボール【田舎の商店に世界チャンピオンあらわる】1978

コカ・コーラボトラーズが火付け役となった『1970年代の第一次ヨーヨーブーム』。実はそれは厳密には1976年、1979年、1982年という3年周期の、それぞれが独立したブームだったのです。要は3年ごとに 『ヨーヨーを用いたコカ・コーラの販促キャンペーン』 が行なわれていて、その都度、小学生を中心に爆発的な人気を博していたという形になっていたのでした。 もちろん当時の小学生はヨーヨーばかりをしていたわけではなくて、その間に『スーパーカーの消しゴム』やら『スライム』やら『ルービックキューブ』やら『ガンプラ』やら『ゲームウォッチ』やらなんやら、それぞれのブームにいちいちハマっていたわけなのです。今思い返せば小学生というのは実に律儀なものですよね。はい。   そしてそんな隙間な時期のある日、当のコカコーラボトラーズ自体が、ヨーヨーとは全く異なる「全く新しいコンセプトの玩具」を仕掛けてきたのです。今日はそんな噺です。 バンバンボールとは? メカニズム コカコーラボトラーズがヨーヨーに続き送り込んだのが本日の主役である『バンバンボール』なのでした。 これは 巨大なしゃもじの形をしたプラスチック製のラケット玩具 で、その中心部には小さな穴が開いていて、そこに反撥性のある小さな球が先に付いた細いゴムが通っているというものでした(百聞は一見に如かずという事で画像をご覧ください)。 これを手に持ってバスケットのドリブルの要領で、まさに「バンバン」と弾くのです。そして基本的な遊び方はただそれだけという、なかなかシュールな代物でした。 商品展開 品物は300円の『 プロフェショナル』 と400円の『スーパー』という2種類で展開されておりました。これは単純に板厚の違いで、小さな子どもが長時間これで遊ぶには、重さの軽い『プロフェショナル』の方がやり易かった記憶があります。 そしてコカ・コーラとファンタの両方を兼ねていたヨーヨーと違い、バンバンボールはファンタオンリーのキャンペーン企画でした。これはおそらく大本のコカコーラボトラーズが 「コーラはヨーヨー、ファンタはバンバンボール」 と交互のキャンペーン展開を狙っていたのでしょうね。 ターゲットは小学生だったが… 意外と中毒性があった 緑のファンタバージョンを買ってもらった僕(当時小学2年)も早速バンバンやり始めたのですが、これが単純であるがゆえ

80年代のビートルズ【ジョージ・ハリスン復活】「セット・オン・ユー」ヒットの理由 1988

日本がバブル期を謳歌していた1988年。その年のビルボードチャートは、マイケル・ジャクソンとジョージ・マイケルとホイットニー・ヒューストンという、その時代の大スターが代わりばんこに1位をとっていたというイメージがあるのですが、実はそこに意外な超大物オールドタイマーが紛れ込んでいたのです。今日はそんな噺です。   ジョージ・ハリスンのソロでの成功 あのスーパーバンド『ビートルズ』が解散したのは1970年です。昭和でいうと45年で、これは日本で大阪万国博覧会が開催された年でもあります(ついでに僕が生まれた年なのです)。 ビートルズの解散以後、他のメンバーに先駆けて、いち早く目覚ましい動きを見せたのはジョージ・ハリスン氏でした。彼は『オール・シングス・マスト・パス』『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』と立て続けにメガヒットのアルバムをリリースし、ソロ歌手としての立ち位置をすぐに確立します。さらにはシングル部門においても『マイ・スウィート・ロード』が英米両チャートの一位を独占するなど、70年代前半においては 「ビートルズを解散して最も成功した元ビートルズ」 と音楽評論家たちが認めるような大活躍ぶりだったのです。 音楽業界からフェードアウト ジョージ氏は1977年頃からは映画プロデューサーとしての活動も始めます。その分野でも大成功を収めた一方で、次第に本業であるはずの音楽業界からは徐々にフェードアウトしていきました。原因としては70年代後半からの 『「マイ・スウィート・ロード」盗作訴訟』 や 『「想いは果てなく 母なるイングランド」ダメ出し事件』 、そして極め付けというべき1980年の 『ジョン・レノン暗殺事件』 など、ジョージ氏にとってネガティブな出来事が相次いで起こったことが挙げられると思います。 そんなわけで80年代のジョージ氏の音楽といいますと 『趣味性の高いアルバムをたまに出しては、大してプロモーションもせずに放置』 という感じになってしまっておりました。ジョージ氏自身も 「特に1985年あたりはほとんど何もしていなかった」 と語っているような状態でした。そんな状態ではセールスがパッとしないのも無理からぬ話でありまして、周囲からは、このままジョージ氏は音楽の世界から引退するのではないかとすら思われていたのです。 突然のビルボード1位 僕は前述のように197