日本がバブル期を謳歌していた1988年。その年のビルボードチャートは、マイケル・ジャクソンとジョージ・マイケルとホイットニー・ヒューストンという、その時代の大スターが代わりばんこに1位をとっていたというイメージがあるのですが、実はそこに意外な超大物オールドタイマーが紛れ込んでいたのです。今日はそんな噺です。
ジョージ・ハリスンのソロでの成功
あのスーパーバンド『ビートルズ』が解散したのは1970年です。昭和でいうと45年で、これは日本で大阪万国博覧会が開催された年でもあります(ついでに僕が生まれた年なのです)。
ビートルズの解散以後、他のメンバーに先駆けて、いち早く目覚ましい動きを見せたのはジョージ・ハリスン氏でした。彼は『オール・シングス・マスト・パス』『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』と立て続けにメガヒットのアルバムをリリースし、ソロ歌手としての立ち位置をすぐに確立します。さらにはシングル部門においても『マイ・スウィート・ロード』が英米両チャートの一位を独占するなど、70年代前半においては「ビートルズを解散して最も成功した元ビートルズ」と音楽評論家たちが認めるような大活躍ぶりだったのです。
音楽業界からフェードアウト
ジョージ氏は1977年頃からは映画プロデューサーとしての活動も始めます。その分野でも大成功を収めた一方で、次第に本業であるはずの音楽業界からは徐々にフェードアウトしていきました。原因としては70年代後半からの『「マイ・スウィート・ロード」盗作訴訟』や『「想いは果てなく 母なるイングランド」ダメ出し事件』、そして極め付けというべき1980年の『ジョン・レノン暗殺事件』など、ジョージ氏にとってネガティブな出来事が相次いで起こったことが挙げられると思います。
そんなわけで80年代のジョージ氏の音楽といいますと『趣味性の高いアルバムをたまに出しては、大してプロモーションもせずに放置』という感じになってしまっておりました。ジョージ氏自身も「特に1985年あたりはほとんど何もしていなかった」と語っているような状態でした。そんな状態ではセールスがパッとしないのも無理からぬ話でありまして、周囲からは、このままジョージ氏は音楽の世界から引退するのではないかとすら思われていたのです。
突然のビルボード1位
僕は前述のように1970年生まれですので、ジョージ氏がソロで売れまくっていた時期をリアルタイムでは経験してません。それゆえ僕にとってはあくまで『ジョージ=元ビートルズ=「ヒア・カム・ザ・サン」と「サムシング」の人』であり、あくまでビートルズのオリジナルメンバーであるジョージ氏が『リヴィングレジェンド』だったのです。
ですのでソロの活動については、悪く言えば『過去の人』という感じもあったのですね。そしてそういう状況でしたので、『ビートルズのジョージ・ハリスン』が、いきなりリアルタイムのビルボードチャートで1位を獲得した事に、僕は本当に驚いたものでした。
『セット・オン・ユー』突然のヒット
1988年1月20日付のビルボードのシングル・チャートで、ジョージ・ハリスンの「セット・オン・ユー」が1位をゲットし、「80年代の奇跡」として世界中の音楽界に衝撃を与えました。
このビッグサクセスは1987年に行われたジョージ氏のオリジナルアルバムの制作中に、無名の黒人歌手の楽曲だった『セット・オン・ユー』が偶然に近い形でレコーディングされたことにより始まりました。その後、「息子のダーニが気に入ったから」という、かなり適当な理由でシングルカットされた同曲は、制作した人間の想定すらも遥かに上回る大ヒットになっていったのです。ジョージ氏にとっては15年ぶりの1位であり、『史上最も長い間隔を開けた1位獲得』としてギネスレコードにも認定されたのでした。
このビッグサクセスは1987年に行われたジョージ氏のオリジナルアルバムの制作中に、無名の黒人歌手の楽曲だった『セット・オン・ユー』が偶然に近い形でレコーディングされたことにより始まりました。その後、「息子のダーニが気に入ったから」という、かなり適当な理由でシングルカットされた同曲は、制作した人間の想定すらも遥かに上回る大ヒットになっていったのです。ジョージ氏にとっては15年ぶりの1位であり、『史上最も長い間隔を開けた1位獲得』としてギネスレコードにも認定されたのでした。
ヒットの要因
ビートルズのリバイバルブーム
この時期はビートルズのオリジナルアルバムがオフィシャルの形で初めてCD化された時期でした。さらにはジョンレノンのドキュメンタリー映画の制作がなされたり、その息子のジュリアン・レノンがデビューを果たすなど、ビートルズのリバイバルブームの大きな波が沸き起こっていたのです。そんな中でビートルズのオリジナルメンバーがリリースした「ちょとビートルズ風な曲」というものは、世間からかなり好意的に迎えられたのは当然の流れでした。
懐古趣味な楽曲
80年代はヤマハの名機『DX-7』の影響もありシンセポップが全盛の時代でもありました。特に80年代後半になりますと、ユーロビートが一世を風靡し、世の中には『シャカシャカサウンド』が溢れかえる事になります。そしてそういう状況に皆が飽きかけていたタイミングで、この懐古趣味的な『セット・オン・ユー』がリリースされたという話なんですね。この事は大きかったなと今でも思います。そしてこれはこの曲に限らず、同時期にメガヒットしたジョージ・マイケルの『Faith』なども、そのブレイクの仕方には似た感じの印象がありますね。
ジョージがやる気になった
そんな状況的な追い風のようなものはあったのですけど、結局はジョージ氏本人がやる気を出したのが1番の勝因だったと思います。このアルバムの制作前に、映画の仕事でマドンナ氏と関わった事が大いに刺激になったようで、プロモーションにもかなり力を入れるようになったのです。そんなわけで、僕は様々なタイミングに加えて、これらの要因が全て重なった上での『奇跡の復活1位』だったと思っております。
リアルタイムビートルズ
しかし改めて思い出しますが、あのバブルのあの狂乱の時期に『ジョージ・ハリソンがビルボードでトップを獲った』というのは、本当にまさかの復活劇でしたね。そして当時の僕にとって、ビートルズメンバーというのは、ほとんど神のような存在でしたから、過去の人に成りつつあったジョージ氏がリアルタイムで1位を取ってくれて心の底から嬉しかったのです。
80年代のビートルズ
ビートルズが解散した1970年生まれの僕は、80年代がそのまんま10代だったわけです。そんな青春期のなかで、ジョージ以外にもビートルズのオリジナルメンバーが現役感を感じさせてくれた楽曲がありました。
『スターティング・オーバー』ジョン・レノン
まずは1980年のこの曲ですね。アルバム『ダブルファンタジー』からのシングルカット曲で、ジョン ・レノン氏の在命時の最後のリリース作となっています。ジョン氏はこの曲がイギリスチャートで1位になったら凱旋里帰りを考えていたようで、それが6位かなんかで止まってしまった事にかなり落ち込んでいたそうです。オノ・ヨーコ氏が慰めると「まあ僕には家族がいるから良いや」と答えたとの事です。
ジョン氏の死後にこの曲はNO1ヒットになり、オノ・ヨーコ氏はその事をジョン氏の遺影に報告したそうです。
『ひとりぼっちのロンリーナイト』ポール・マッカートニー
続いてはポール・マッカトニー氏が1984年にリリースした『ひとりぼっちのロンリーナイト』です。これはポール氏が初監督した映画のサウンドトラックからのシングルカット曲で、リアルタイム時には「これはポールのソロの最高傑作だ!」と、とても興奮したものでした(まあ映画はアレでしたが…)。
ちなみに同サントラにはビートルズのカバーが何曲か収録されているのですが、その中でも、あの『ロング・アンド・ワインディング・ロード』が実に素晴らしい出来となっています。
オーケストラを極力抑え、ジャズを前面にリアレンジされた同曲は、オリジナルとは異なる魅力をは放っております。そもそもポールはこの曲にオーケストラを用いることを反対していたそうですが(それで他のメンバーと揉めたのもビートルズ解散の一因とのこと)、何だかそれに対するポール氏なりの回答のような気もしました。
かけがえのない3曲
僕はビートルズに完全に間に合わなかった世代です。ですので、自分がいちばん多感だった80年代に『ジョンのスターティング・オーバー』と『ポールのひとりぼっちのロンリーナイト』を体感出来たのはとても幸いな事でした。そして1988年のこの時、さらにそこに『ジョージのセット・オン・ユー』が加わってくれた事が改めて素晴らしいのです。何だか『80年代ビートルズ神ソング集』の最期のピースが揃ったような気がして、これは本当にかけがえのない事だったんだなと、30年以上の時を経た今でもしみじみ感じております。はい。
あれ?
そういや、誰かもう一人いたような気もするけど…。
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