西城秀樹【昭和が愛したスーパースター】1972‐1988 スキップしてメイン コンテンツに移動

西城秀樹【昭和が愛したスーパースター】1972‐1988

酒席などでは「たのきん世代」とサバ読んでおりますが、実は「新御三家+ジュリー世代」の僕にとって、西城秀樹さんが亡くなった際の喪失感というものは、なかなかのものでした。何と言っても僕が最初に好きになった男性芸能人ですから…思えば僕が人生の節々で長髪にしたくなるのも、幼年期にずっとワイルドでかっこいい秀樹さんの長髪を見ていたからなのかもしれません。



最高のスター

芸能人格付け最上位クラス

僕は「物心がついた時点でのトップスター」というのが、その人間にとって一番格上のスターになるような気がしているのです。

僕にとって「西城秀樹」という人は「アントニオ猪木」や「石立鉄男」や「佐良直美」や「北の湖」や「三波伸介」や「田中星児」や「大橋巨泉」なんかと並ぶ「芸能人格付けランキング最上クラス」に属している人でありました。



実際、70年代中盤から80年にかけて (「傷だらけのローラ」〜「YOUNGMAN」) のヒデキ人気は、それこそテッペンだったのではないかなと感じております。僕も縁側ステージでよく真似をしておりました。 

ザ・ベストテン唯一の満点


秀樹さんの代表曲「YOUNGMAN」は、TBSの人気番組「ザ・ベストテン」において、史上唯一の満点を獲得したことでも有名な曲ですね。しかも秀樹さんは79年の4月5日と4月12日の2週連続で満点を達成しているのです。これは本当に凄い記録だと思います。ではなぜ満点なのかと言いますと、このベストテンの満点というのは、単純に「レコード売上げ、ハガキリクエスト、ラジオチャート、有線放送リクエスト」の全項目で1位を獲得した場合に算出される点数なのです。だから基本的には減点法なのですね。
ですので、メディアごとに盛り上がりの時差があるはずの4つ項目の中で、その1位が全部揃うというのは、非常に稀なケースなのです。だからこその満点。空前絶後の満点男。秀樹さんは本当に正真正銘のスターなのでありました。

(ちなみに「YOUNGMAN」の満点に次ぐのは、あのピンクレディー「UFO」の9966点でした)

バーモントとは?

秀樹さんが亡くなった日、寂しい思いを胸にYOUTUBEでハウスバーモンドカレーの終わりなきヒデキCMをボケっと見ておりましたら、連れ合いに呆れられてしまいました。
そういえばなんでバーモントカレーなんだろうと、調べてみましたら

『開発当時の日本では「バーモント健康法」と呼ばれる、アメリカ・バーモント州に伝わるりんご酢とはちみつを使った民間療法が流行しており、これが商品名の由来となっている』

 とのことでした。
そんなマニアックな理由でつけられた商品名が、いまだに日本人の誰しもが知るベストセラー&ロングセラーになっているのですから、まったくもって不思議なものです。これも秀樹さんの力なのでしょうね。

暗黒の1980 

悪い意味でのターニングポイント 

1979年に「YOUNGMAN」で頂点を獲った秀樹さんでしたが、翌年の1980年は人気の(悪い意味での)ターニングポイントになった年でした。
1980年という年は「たのきん」や松田聖子という新世代アイドルの台頭が目覚ましかった年でした。それに加えて漫才ブームが象徴するように、ある種の新陳代謝というか、日本のカルチャーがバブル期に向けて「より軽いもの」を求めていたのですね。そんな中で70年代的こってり系の秀樹さんの立ち位置は、その年齢的にも、なかなか難しいものになってきておりました。

さらに決定的な要因といいますか・・・この年に秀樹さんが発表した楽曲というのが、その80年代的「C調」に全くそぐわないものだったのです。とにかく重く暗い曲が多かったという。いやはやほんとに。

「愛の園 (ai no sono)」


まずはこの曲ですね…。アイドル楽曲史上、これほど不気味な曲は他にないと思います。ほんと「人生の酸いも甘い」も「大人の事情」というものも、ある程度かぎ分けてきた今になって聴いてみても、やっぱりわけがわかりません。一体全体、これはどんな宗教団体なのだろうかって話ですね(苦笑)。


新世代のトシちゃんが「哀愁でいと」とか「ハッとして!Good」とか歌っている年に、秀樹陣営は何を考えてこんな曲をリリースしたのでしょうか?本当に疑問です。

「サンタマリアの祈り」


お次は「傷だらけのローラ」系の絶叫ソングです。病に伏した恋人の身代わりになるから僕の命を奪ってくれというという歌ですね。


いや、悪い歌ではないんですけどね。しかしながらこれを「ヤンヤン歌うスタジオ」とか「たのきん全力投球」で歌われても…という話なのでした。

「眠れぬ夜」


そして極めつけは突然のオフコースカヴァー。提供した小田和正さんが「なんかえらい地味に仕上がってました」とぼやくほどの地味さでした。


いや悪くないというか、個人的には大好きなんですけどね。おかげでオフコースにも本気でハマったし…でもという…

というわけで、1980年、ヒデキ人気はリリースされる楽曲とともに急降下していきます。謎の暗黒年。それについて最近「眠れぬ夜」がらみで知ったのですが、実はこの時期、秀樹さんのメインプロデューサーが病で倒れていたそうなんですね。それで病室で秀樹さんに歌わせる曲を選んでいたという話なのです。そう考えると確かにこの辺の選曲センスは「なるほどな」と思わないわけでもありません。ほんと「サンタマリア」とかそのまんまですしね。しかしながら、やはり、アイドルである秀樹さんからしたら、そういう(ある意味で)負のイメージをこの時期に背負ってしまったのは、あまり有難くはない事でした。

ポップンガールシリーズ

 アニキ路線に移行

暗黒期だった1980年を反省するかの如く、1981年の秀樹さんは楽曲を「ポップンガール」と題されたかなり明るいものにします。「年上のカッコいいお兄さんが少女の恋を歌う」というイメージで、衣装も原色やヘアバンドなどを再導入して「正統派アイドル」の復活を目指していた感じでした。
しかしながらこの年は「マッチ」こと、近藤真彦がデビューした年だったのです。この時のマッチ人気は想像を絶する勢いでありまして、業界を再編する勢いというか、それまで「歌謡界」と言われていた世界から「アイドル」というものを完全に独立させたのですね。
そんな流れで、若者の音楽の嗜好が「アイドル」と「ニューミュージック」に二極化していく中で、なまじ歌が上手すぎた秀樹さんはなんとも中途半端というか、少なくともアイドルの世界においては次第に立ち位置を失っていったのです。

「ポップンガールヒデキ」


1981年に発売されたアルバム。ジャケット写真の腹毛は、のちの「ギャランドゥ」の語源になったという話です(嘘)。

 「リトルガール」 


ポップンガール路線第一弾。語りがポイントですね。長髪にウェーブをかけたりして、イメチェンも図ってます。しかしながら「眠れぬ夜」の次がこれでしたので、逆に「わけわからん」感がありました(笑)。



「セクシーガール」


当時人気沸騰中だった横浜銀蝿が提供した楽曲。ザ・トップテンの中継で「セクシーな秀樹にセクシーな曲を送った」という翔さんの言葉に対して「そちらも男らしくてかっこいいですよ」と秀樹さんは答えておりました。そういえばこの時の番組の冒頭で、秀樹さんの代名詞であった球場ライブの映像が流されたのですが、ヘリからの着地失敗で頭を打ったシーンは今でもはっきり覚えております。秀樹さんは危ない事をやらされまくりでしたね。

「センチメンタルガール」


実は秀樹さんの楽曲の中で僕が一番好きな曲がこれなんです。良い感じで力が抜けているというか、明るくて爽やかで、少し余裕のある大人の男の歌。ラスサビがたたみかけるように繰り返されるのも、すごく良いなと感じています。



しかしながらこの曲を初めて聴いた時、僕はすごく気に入りながらも「この曲は売れないな。いよいよヒデキも厳しいな」と感じたのでした。ファンであるが故に、その「時代とのズレ感」を余計に感じてしまったというか…

 実際にこの曲で秀樹さんはオリコンの10位以内に入ることができず、それまで続けていた「ザ・ベストテン」の連続出場記録も途絶えてしまったのでした。


アイドルの重鎮

ヒデキが司会者に

秀樹さんは1981年から「モーニングサラダ」という若者向けのアイドル情報番組の司会者になります。アイドルあがりの司会者というと、世代的に「レッツゴーヤング」の太川陽介さんや「ドキッ!丸ごと水着!女だらけの水泳大会 in 大磯ロングビーチ」の おりも政夫さんなんかが思い出されるところです。うん、今思い返しても実にいまいちですね(失礼)。
しかしながら、パッとしなかった彼らに比べ、秀樹さんは「テッペン獲った男&現役バリバリのアイドル」でしたから、そもそもオーラが違ったのです。



世界のHIDEKIヘ

実際に番組は好評で4年もの長寿番組になり、それまで「たのきん」に押されに押されていた秀樹さんは「アイドルの兄貴分」「アイドル界の重鎮」という、アイドルの上位観念になる事に成功します。1981~1985あたりは本当にアイドル全盛期でしたから、番組の影響力も大きかったのですね。この時期は番組に出演していた「とんねるず」が秀樹さんのマネージャーと合体して自分たちの事務所を創ったりしています。



そして秀樹さんそのものも芸能界に対する影響力を強めながら、それまでの所属事務所から独立。活動の幅をアジア単位まで広げていきます。そう、この時期の秀樹さんは海外進出に可能性を見出していたのですね。日本の秀樹から世界のHIDEKIへと…

暗黒ドラマ「ホームスイートホーム」

そんなわけで長々と書きましたが、実はこの「モーニングサラダ」という番組は、当時僕が住んでいた福島ではオンエアされていなかったのです(苦笑)。だから「噂は聞けど姿は見えず」状態でありまして、僕は秀樹さんのイメチェンにうまく乗っていけなかったのでありました。そのうちに吉川晃司さんとか尾崎豊さんとか目新しい関連に興味が移っていくという…


さらにはこの時期、秀樹さんは「ホームスイートホーム」というドラマで主演していたのですが、そのドラマは「桃井かおりさん演じる実姉との禁じられた愛」が描かれたものだったのです。それは小学校から中学校に入ろうかという、実姉のいるガキにとってはかなりきついものがありました。そしてそのドラマの主題歌になった「漂流者たち」という曲が、もう、あの「暗黒期」再びというか…



週末にやっていた秀樹さんのラジオを聴いても、暗いドラマの話を長々とされたうえで、最後にこの曲を流されるわけですから、僕が「所ジョージの足かけ二日大進撃」に浮気してしまったのも無理のない話なのでした。

これが俺のヒデキだよ

秀樹と距離をおいた青春時代

僕が秀樹さんのちゃんとしたファンだったのは、1982年いっぱいまで、つまり自分が小学校の間の事だったんですね。それから中学、高校という時期はまさに青春時代でありまして、僕も趣味やら興味やら部活やら美術やら恋やらで忙しく、今さら西城秀樹というか・・・




彼が独立後に『ギャランドゥ』をヒットさせても「お、秀樹も元気にやっているなあ」 という感じでしたし、さらにはその後(ワム!の「ケアレスウィスパー」を大胆に解釈した)「抱きしめてジルバ」をヒットさせても 「お、秀樹も変な事やっているなあ」 という感じでしたし、さらにはバリー・マニロウとデュエット曲をヒットさせても 「お、バリー・マニロウって誰だ?」 という感じでした。

ソウルオリンピック


そして中学時代から高校時代が過ぎ…遂には高校三年生。1988年になりました。この年は韓国のソウルで五輪が行われた年で、文化的にも経済的にも東アジア(日本+当時のNICs)という地域が世界的にも注目されていた時期でもありました。
そんな中で「ソウル五輪の前夜祭にアジア4地域のスターが集結することが決まった。日本代表は西城秀樹」という報道がされたのです。これには秀樹さんに醒め気味だった当時の僕もかなりグッときたのです。



この頃の日本の男性アイドルのトップの座は、既に「たのきん」から「チェッカーズ」を経て「少年隊」から「光ゲンジ」へと移っていたのですが、しかしながら、ことアジアレベルの話となりますと、積極的に海外進出を行っていた秀樹さんの人気は絶大であったのです。「天皇巨星(超スーパースター)」。そんなわけで歌唱力も含め、必然的に日本代表となった秀樹さんでしたが、この前夜祭にはもうひとつ大きな話題があったのです。それは

 「西城秀樹はソウル五輪の前夜祭で日本語で歌を歌うのか?」

 というものでした。当時韓国では日本語が厳格に制限されていたのです。単純に言えば「公共の場で日本語の歌を歌うな」という話ですね。だからどうなるのかと…まあこの頃の秀樹さんは全編英語のカヴァーアルバムを出したりしていましたので、いざとなったらそっちの方もあるのかなと僕は思っていました。そしていよいよ当日。NHKの生中継が始まりました。

秀樹のベストテイク

この前夜祭のステージを仕切っていたのは、当時、日本で演歌歌手として売れまくっていたチョー・ヨンピルさんでした。このチョーさん。日本では純度100%の演歌歌手で知られていたのに、母国の韓国では完全に「ロックスター」だったのですね。彼は日本での様子からは信じられなくらいノリノリに、大観衆で埋まったオリンピックスタジアムをどんどん温めていきます。そしていよいよ真打の登場です。
チョーさんが叫びます。スーパースターッ! サイジョ―ッ! ヒ!デ!キ!!」会場はドッカン盛り上がりです。そして流れてきたのはあの大袈裟なイントロ。秀樹さんがシャウトします。ダイナミックなステージに場内の興奮は最高潮になりました。実際にこの時の「傷だらけのローラ」は、秀樹さんにとってもベストテイクだったように思います。

「スタジアムのお客さんが興奮してステージに走り寄っています」 

 と、NHKの山本アナがレポートします。当初は日本語歌唱による暴動すら心配したのですが、秀樹の熱いステージに、スタジアムは完全に逆の意味で危なくなっておりました。これはもう「1987年のデヴィッド・ボウイのベルリンの壁ライブ」に勝るとも劣らない「1988年の西城秀樹のソウル五輪前夜祭ライブ」だったわけです。そしてそれを視ていた僕は、

 「これが俺のヒデキだよ」
 
と、自分が大好きだった70年代のヒデキが時空を超えて蘇ったような、凄く熱い気持ちになっていたのでした。

あれから30年

我が家の物置小屋の中にある、引っ越し以来、一度も開けていない段ボールの中に「ソウル五輪前夜祭」とラベリングされたビデオテープがあるはずです。まあ世の中には「ソウル五輪総集編」とかのビデオを持っている人はいるでしょうけど、こと「ソウル五輪前夜祭」のビデオを持っているのは、たぶんこの地球上で僕くらいなんでしょうね。
あの時、秀樹さんが亡くなったというこのタイミングで、僕がそのビデオを視なかったという事は・・・おそらく今後もそれを視ることは無いのでしょう。

 
そしてその必要は無いとも思っているのです。
美しい記憶。すべては時の中に。

俺のヒデキよ…永遠に。



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