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7月, 2020の投稿を表示しています

ナイツ NiGHTS into Dreams...【夢と勇気と優しさ SEGAサターンの超名作】1996

1994年11月に、当時の次世代ゲーム機である「SEGAサターン」が発売されました。その際に大きく注目されたのは、名作「ソニック・ザ・ヘッジホック」を生み出した「SONICチーム」が、この新しいゲーム機で、どんなゲームを発表するのかということでした。今日はそんな噺です。 SEGAサターン発売 SEGAのゲーム機「サターン」は1994年の11月に発売されました。そして本体の発売と同時に、ローンチタイトルとして、人気アーケードゲームの「バーチャファイター」のサターン版も同時発売されました。この 「バーチャファイター」は、鈴木裕氏率いる「AM2研チーム」が制作したもので、当時は「家 庭用ゲーム機への移植は困難なゲーム」とささやかれておりました。それゆえそれが実現出来たことが大いに評判になり、ゲームは70万本を超える大ヒット作となりました。 一方、SEGAのコンシューマーゲームを代表する「ソニック・ザ・ヘッジホック」シリーズを作り上げた「中裕司」氏率いる 「SONICチーム」は、ゲームの発表どころか、ゲーム開発のアナウンスすらしておりません でした。 それゆえゲーム雑誌では「ソニックに逢いたい!」という特集が組まれ、SONICチームへのインタビューが行われたりしましたが、そこでゲーム開発の具体的な証言が成されることはなく、 その後、一年ほどは全く動きがありません でした。 新キャラクター「ナイツ」 SONICチームからゲームの開発が発表されたのは、サターン本体が発売されて1年半近く経った1996年の春の事でした。それもソニックのゲームではなく、 「ナイツ」という全く新しいキャラクターのゲーム だったのです。 「ナイツ」は道化師のような造形に加えてメインカラーは紫という、これまでの「主人公キャラ」の概念を打ち破るデザインがされておりました。さらにはゲームジャンルは 「新感覚フライトシミュレーション」 という未知のものです。正直、そのゲーム性などは見当もつかない状態でしたが、あのSONICチームが自信をもって制作しているとのことなので、否が応でも期待は高まっていきました。 吉野紗香さん主演のTVコマーシャル。このCMも名作ですね。   ナイツ公式トレーラー [ナイツ] あなたが、「悪夢の世界」に迷い込んだら、ナイツを思い出して下さい。 自由気ままに空を飛ぶナイツ、優しく微笑むナ

ビョルン・アンドレセン【史上最高の美少年】『ベニスに死す』1971

美少年の代名詞として半世紀余りも君臨し続ける「ビョルン・アンドレセン」。今日はそんな彼の伝説の映画「ベニスに死す」を振り返りながら、名匠ルキノ・ヴィスコンティ監督が求めた「究極の耽美の世界」についての噺をしていきます   タッジオ以前のビョルン・アンドレセン 彼は1955年、スウェーデンのストックホルムで生まれました。幼年期に父に捨てられ母が自殺するという、あまりに過酷な生い立ちを持っています。その後、祖母に育てられ、音楽学校に進学したのちロックに傾倒。14歳の時に祖母の勧めで子役としての活動を始め、『純愛日記(スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー)』の端役で銀幕デビューします。 たった3分程度の出番でしたが、美少年ぶりは半端なく、この経験が次につながっていくのです。 タッジオを求めて 1970年、ヴィスコンティ監督が『ベニスに死す』の映画化の為に、主人公の作曲家を虜にする少年タッジオ役を求めてヨーロッパ中を探しておりました。その時のオーディションの模様がこれですね。これは『タッジオを求めて』というイタリアの公共放送の30分番組になっています。 ヴィスコンティ監督は文句ばっかり言ってますが、明らかに喜んでいますね。 そんなわけで数千人の候補者の中から最終的にアンドレセンさんがタッジオ役に決定しました。 「ベニスに死す」とは? 原作 原作はドイツの作家トーマス・マン氏の同名小説です。これは彼がヴェネチア旅行をした際に、 実際に出会ったポーランド人の少年を描いた小説 で、完全に実話に基づくものでした。ちなみに原作では「初老の作家と美少年の出会い」が描かれておりますが、それは映画では「初老の作曲家」に変更されています。 映画のあらすじ ドイツの高名な老作曲家アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)は静養の為に赴いたベニスで、究極の美を体現したような美少年タッジオ(ビョルン・アンドレセン)に出会う。ゆるくカールした金髪と澄んだ碧眼の瞳。まるでギリシャ彫刻のようなタッジオにアッシェンバッハは次第に心を奪われてゆく…。 主な宣伝文句 『ただひたすらに美しい、愛と死の一大交響詩』 『壮麗な水の都を舞台に巨匠ビスコンティが描き上げる究極の「美」』 『美は滅びない』 マーラー作曲「アダージェット」 映画であまりにも印象的に使われている音楽は、マーラーの交響曲第5番の第4楽章「アダージェッ

サッカーW杯1990イタリア大会【史上最低と呼ばれた退屈なワールドカップ】1990

日本のバブル期に行われた『サッカーワールドカップ1990イタリア大会』は、「史上最低のワールドカップ」と世界中から酷評された大会でした。では何故そうなってしまったのか?今日はそんな噺です。 話題にならないW杯 サッカーW杯イタリア大会が行われた1990年。 当時僕はバブル景気に浮かれる新宿歌舞伎町で働いておりました。時差の関係で、ちょうど仕事明けの始発待ちの時間帯に、NHKが試合を生中継しておりましたので、僕もそれを休憩所のTVで熱心に視ていたのです。 そして現在ならサッカーのワールドカップの開催期間中には、日本中が「ワールドカップだ!」「サチモスだ!」などと、実にハートビートに盛り上がるはずのものなのですが…Jリーグ発足前だったこの頃は、今では想像できないほど。ワールドカップ熱というものは盛り上がっていなかったのです。 記憶に全く残らぬ日本代表 この大会。日本代表は予選落ちで出場できませんでした。まあそれは仕方のない事ですが、自分でも驚くのは、この時の代表の試合というものを、本当に何一つ、全く覚えていないということなのです。 その前の「1986年メキシコ大会」の予選は 「木村和司の伝説のフリーキック」 の時で、W杯初出場を目指し、韓国に最後まで食い下がった試合を僕もはっきりと覚えています。 それで「1994年アメリカ大会」となると、これはもう例の 「ドーハの悲劇」 の時ですからね。これはもう忘れようにも忘れようがありませんよね。 しかしその間のイタリア大会の予選…結果を見てみると、 格下の香港やインドネシアと引き分けを繰り返し、最後は平壌で北朝鮮に負けて一次予選落ちだった みたいですね。そこには井原選手や松永選手や水沼選手や黒崎選手といった「Jリーグ黎明期の選手」がメンバーに名を連ねています…が、うーん、マジで記憶なしです。予選が行われていた1989年は僕は予備校生時代でしたから、こんな典型的な負け戦に乗れなかったのかもしれないですね。 南米はドロドロ 記憶に残らぬ日本の予選と違って、南米の予選のドロドロぶりは実に印象深いものでした。 チリがインチキ行為で2大会資格停止 まず大騒ぎになったのが後に「ロハス事件」と呼ばれる チリのインチキ出血事件 ですね。これはワールドカップ予選の「ブラジル対チリ」において、劣勢だったチリが「ブラジルサポーターの投げた発煙筒が当たり

チートデイと断食を続けてやった結果

ダイエットの停滞期 実はダイエットをしているのですが、 5キロ減くらいから体重の減少がぴったりと止まってしまいました 。 本当にべたなぎになってしまいまして、アプリの体重増減グラフが、まるでドラマの御臨終時の 「ピーーーーーーーーーーーーーーーーーー」 みたいになっています。 まあそれは体の特性を考えれば当たり前のことでもあるのですが・・・そもそもアラフィフですしね・・・ でも一か月以上も停滞期が続きますと、さすがに僕もウンザリしてきましたので、ここいらで体に刺激を与えようと考えました。 チートデイ チートデイとはダイエット中の停滞期にあえて大量に食べることで、体に刺激を与え体重を落ちやすくするというもの です。ボディービルダーさんが行っているダイエット法です。 しかしながら僕はこれに懐疑的でして、そもそも 「 食べて痩せるダイエットなんて、宇宙の真理に反しているのではないか」 と思うのですね。 ※一日一食主義のタモリさんも「食べて痩せるダイエットなんてない」と断言 さらにはダイエッターの中には、このチートデイを心のよりどころのようにしているような人も見受けられ、僕などは 「願望が『痩せたい』から『食べたい』に変わってませんか?」 と疑問に思うわけです。 ファスティング そうなるとチートデイと真逆の発想、つまり「断食」というものが頭に思い浮かんできます。これは近年は 「ファスティング」と呼ばれ、必要最低限の栄養素のみを摂り、あとは断食するというダイエット法 です。 ※小川直也さんはファスティングで急に痩せたため、最初はおなかの皮が緩んでいた しかし僕はこれにも懐疑的でして、まあそれを言葉にすれば 「そりゃあ食わなきゃ痩せるでしょ。でも人間そうはいかないでしょ」 というものなのです。正直、現在の僕ならば、断食そのものはそれほど苦の事ではないのですが、でもあんまりその効果(リスク対効果)を信用していないという・・・ チートデイ&ファスティング そこで僕が考えたのが 「大食いと断食を連日でやってみたら、体に対してかなりの刺激になるんじゃないのか?」 というものです。 そして先週末、それを早速やってみることにしました チート まずはチートデイですが、基本的に「大食い」は胃が大きくなりそうで嫌でした。そして炭水化物の摂取というのも、これもまたあまり乗り気にはなれませんでした。

昭和の袋めん『本中華 醬』『これだね』『ほたてラーメン』復刻はあるのか? 1973~

近年「昭和の袋めん」の復刻販売が盛んであります。懐かしのあの味と再会すると「舌の記憶」というものもあるのだなと、しみじみ実感させられます。今日はそんな懐かしのラーメンたちの噺です。 シャンメンたまごめん(ハウス)1973~1977頃 「私はハウスのたまごめん!シャンメン!」 でお馴染みの…って、アラフィフ以上じゃないと絶対に判らないでしょう。もう半世紀近く前の商品なんですね。 僕が物心ついたときには、既に実家の納戸に常備されていた袋めんです。このたまごのキャラクターが本当に懐かしく、それにつられて思い出すのは昭和の日曜日。 「大正テレビ寄席」がTVで流れている中、お昼ご飯としてこれがよく出されていた ように記憶しています。昭和の日曜日というのは、親戚の人も気軽に遊びに来ているような時代で、なんだかとても華やかでしたね。当時の昼御飯はめん物がほとんどでしたが、それがシャンメンだと子供心に嬉しかったものでした。 そして記憶に残るのがこのCMです。 実は僕は幼稚園時代に交通事故で入院したという親不孝者なのですが(しかも飛び出し)、その退院の手続の間、暇つぶしに視ていた待合室のテレビに、このCMが流れた事を今でもはっきりと覚えているのです。そしてそれ以来、このたまごキャラとは長年御無沙汰だったわけですが…こうやってまた視ることのできる時代というのは悪くないものですね。 CMごと復刻を望みたいものですが、現在(2020年)、 ハウス食品はインスタントラーメン事業に全く力を入れておりません ので、正直、それは叶わぬ願いかなと感じます。 本中華(ハウス)1978~2002 「なんちゅうか 本中華」 という大橋巨泉のテレビコマーシャルが懐かしい袋めんですね。大橋巨泉のまるで隠し立てのない大物ぶりというものが、実にコッテリ暑苦しくて、そうであるが故に、やけに美味しそうに感じてしまう商品でした。 前出の「シャンメン」の後継にあたる商品で、実家の納戸にも引き続き備蓄された袋めんです。当時では珍しいノンフライタイプの手打ち風味で、乾燥状態でも独特の透明感のある不思議な麺でした。そしてスープの方は 「中華ブイヨン」と「しょうゆダネ」という粉末&液体のWスープ方式 で、それによりスープに深みとオイリーさが出ていました。ですのでこの商品には、それまでの家庭ラーメンとは明らかに異なる『新時代の味』