【ピンク・レディー】なぜ人気が落ちたのか?『カメレオンアーミー』主犯説 1976-1981 スキップしてメイン コンテンツに移動

【ピンク・レディー】なぜ人気が落ちたのか?『カメレオンアーミー』主犯説 1976-1981

ある日いきなり過去の人になってしまうということ。これは芸能界という大きな荒波の中においては、わりと「ありがち」な話ではあるのですが…
しかしながら、かつて『日本芸能界史上最大級の人気者が、ある日突然過去の人になってしまった』という、単に「ありがち」では切り捨てられない、なんとも不思議な出来事があったのです。今日はそんな噺です。


ピンク・レディーとは

ミイ(未唯mieさん)とケイ(増田恵子さん)の女性2人組のユニットで、1976年にオーディション番組『スター誕生!』にてスカウトを受け、8月に『ペッパー警部」でレコードデビューしました。

 以後、『S・O・S』から『カルメン'77』『渚のシンドバッド』『ウォンテッド(指名手配)』『UFO』『サウスポー』『モンスター』『透明人間』『カメレオンアーミー』まで、9曲連続1位を獲得する快挙を達成します(加えて『ぺッパー警部』から『カメレオンアーミー』までは10曲連続ミリオンセラーを記録しています)。


彼女たちは曲ごとに特徴的な衣装とダンスを披露し、そのパフォーマンスは子供たちを中心に大きな人気を呼び、社会現象とまで呼ばれるブームを築きます。1978年にはポップスアイドルとして初の日本レコード大賞を受賞し、翌1979年には全米進出も果たしました。その後、1981年に後楽園球場のさよならコンサートにて解散しますが、以後、現在に至るまで、折々に再結成を繰り返し、その都度、大きな人気を呼んでいます。

異常な人気ぶり

キャッチーな楽曲とダンス

ピンクレディーの人気が爆発した理由として、まずは2人のビジュアルの斬新さが挙げられます。それまでの日本人歌手には存在しなかった『セクシー&コミカル』というピンク・レディーのキャラクターは、若年層を中心に熱狂的に支持されていくようになりました。


そしてそれ以上に突筆すべきは『発売される楽曲の面白さ』というものでした。そしてこれこそが、彼女たちの成功の一番の大きな要因だったと思います。作詞家の阿久悠氏と作曲家の都倉俊一氏のコンビによる、実に時代性を考え抜かれた楽曲というものは、40年以上経った今聴いても斬新なものであり、とても面白く聞くことが出来ます。

それに加えて、この超大物コンビが作り上げた楽曲に対し、ダメ出しすらも辞さないという、当時の音楽担当ディレクター飯田久彦氏の熱意も(実際に『サウスポー』の際に一度ダメ出しをしています)大きなものでした。そんな制作ブレーンの熱気により生み出された革新的な楽曲群は、1970年代末期の世の中にダイレクトに受け入れられていきました。

さらには振付師の土居甫氏が生み出すダンスというのも、これもまた子供たちを中心に大いに受けいれられていました。これは本当に大げさではなく、楽曲の発表ごと、あの『恋ダンス』以上のダンスムーブメントが毎回起きていたものでした。当時はこの僕も姉と一緒によく踊ったものです。

マルチタレント

ピンク・レディーは歌謡の世界だけではなく、バラエティーや司会業など、マルチにこなせるタレントでもありました。あの偽善マラソン大会と悪名の高い『24時間テレビ』も、たしか初代のイメージキャラクターはピンク・レディーだったような気がします。

貴重映像を見つけました

そしてそんな状況の中で、本業の歌手活動の方も、当時は『ザ・ベストテン』などの歌番組が全盛の時代でしたので、彼女たちはそれらにも出ずっぱりでした。そのあまりの忙しさに、2人は『ザ・ベストテン』司会の黒柳徹子さんと顔を合わせた記憶がすっかり飛んでいるそうです。あれだけ毎週のように顔を合わせていたのに、しかもあの黒柳徹子さん忘れるなんてことが本当にあり得るのかと思いますが…当時の多忙さというものは、それほどまでにピンク・レディーの2人を追い詰めていたのでしょうね。

ピンクレディーグッズ

僕は1970年生まれなので、ピンク・レディー直撃世代なのですが、あの頃は本当に世の中がピンク・レディーだらけという感じで、右も左もピンク・レディーという感じでした。関連グッズは巷にあふれかえっておりまして、僕の記憶が確かなら『ピンク・レディー学習机』まであったような気がします。ピンク・レディーの学習机って… これは6年生ぐらいになったら、かなり嫌な思いをしたのではないかと、購入者のその後が不安になりますね。

自転車。オリジナル自転車が発売されたアイドルは、あの天地真理さんとピンク・レディーだけではないでしょうか?

今で言う『プリキュア』の役割もピンク・レディーが果たしておりました

 
コードレス蚊取り器なんてものまで、シール一枚でピンク・レディーグッズに早替わり

『透明人間』ということは全盛期末期の品物だけに『なかよく あそんでね!』の言葉が意味深に感じます


人気急落の理由

さてさて本題です。僕らの世代は酒席などで「スーパーカーブームとピンクレディーブームは気が付いたら終わっていた」という話しをよくしております(本当)。そしてその話し合いは小一時間では収まらないこともしばしですが、いつも明確な答えは出て来ないという、僕らの世代の永遠の謎になっているのです。


そんな中でもピンク・レディーの人気急落については、大まかに分けると四つの説が毎回でてくるのです。それは『紅白辞退事件』『全米進出の空白期間』『総会屋関与疑惑』『新たな流行』というものです。ではそれらを順を追ってご紹介していきます。

紅白辞退による業界の反発説



1978年、ピンク・レディーが記者会見で、その年末の紅白歌合戦の出場を辞退する事を宣言し、大きな衝撃を持って世間に受け止められました。これは所属事務所の社長のひらめきで実行されたもので、紅白の裏番組に人気絶頂のピンク・レディーを出演させるのは面白いのではないかという考えからでした。そして新興事務所のそういうチャレンジシブルな姿勢が、ここまでピンク・レディーを巨大なものにした一因でもあったのです。
しかし当時の紅白というものは、視聴率70%を超える今以上に絶大な人気の番組でありました。さらには「歌手としての最高峰」という感覚が今以上に強い場でもありました。ですのでピンクレディーという『子供向けのアイドルタレントが、あの紅白を辞退するなんておこがましい』という論調が高まったのは確かなことでした。

全米進出の空白期間が原因説


当時ゴールデンタイムの人気バラエティー番組『ザ・チャンス』の司会をしていたピンク・レディーですが、そんな彼女達がある日突然「ラスベガスでコンサートをするのでしばらくお休みします」と宣言し、司会を降板したのは衝撃的な出来事でした。そしてピンク・レディーはその日を境に、コマーシャルを除いて一切テレビから姿を見せなくなってしまったのです。それから正式に帰国するまでの半年余りの時期というのは、今にして思えば、ピンク・レディーに対する世間の熱狂を冷ますのには、充分すぎる時間だったのだなと感じますね。

これは後の『欽ちゃんの長期休養』でも感じたことですが、どんなに売れっ子のタレントだったとしても、その人が一旦、長期休養などで姿を消したりすると、なんだか憑き物が落ちたように一般大衆の興味が失せていくということ。これは紛れもない事実なのだと思います。これはさらにその後の『松田聖子さんの結婚休養』や『安室奈美恵さんの出産休業』の場合にも感じたことですね。ですので、やはり件のピンク・レディーにとって、この全米進出の空白というものは、その人気にとって非常に大きなことだったと思います。

総会屋関与疑惑の文春砲


後に『江夏の21球』で有名になるノンフィクションライターの山際淳二さんが、週刊文春にピンク・レディーの内幕ドキュメントを連載し、その中で彼女たちの所属事務所であるT&Mカンパニーが、その設立時に、大物総会屋から資金援助を受けていたことが明かされました。その後「子供たちが買ったグッズの売り上げが総会屋に回っていた」というスキャンダラスなバッシングに発展していったのです。
しかし、これは言われているほどリアルタイム時には大げさなものにはなっていなかった記憶があります。当時はコンプライアンスの観念も今とは大きく異なっていましたし、そもそもピンク・レディーの所属事務所と総会屋絡みの報道は、山際さんの記事以前の、1977年の夏ごろからあったのです。ですので、これをもって人気急落の主因とするのは、時期
的にちょっと無理があるかなとも思うのです。実際にピンク・レディーは、1980年ぐらいまではCM業界にも引っ張りだこでしたからね。

他がパフォーマンスに力を入れてきた

これはピンク・レディーが‐1979年初頭、その活動をセーブした際に『他のアーティストが売れセンの曲を多数リリースしたため、ピンク・レディーをみんなが必要としなくなった』という説ですね。ちなみにこの時期にリリースされたヒット曲というと

西城秀樹さんの『ヤングマン』

確かにピンクレディーのファン層を奪うかもしれないですね

沢田研二さんの『カサブランカダンディ』

作詞は阿久悠さん。男の子が学帽でこぞって真似しました

ジュディオングさんの『魅せられて』
エーゲ海に捧ぐですな

などがありました。確かにどれもこれも『楽曲の良さ+パフォーマンスの面白さ』という、ピンク・レディーに被るものがありますが…まあこれがピンク・レディー凋落の決定要因とまでは言えないかなあと思います。はい。

カメレオンアーミー主犯説


そんなわけで、ここで僕がイチオシにあげたい人気低下の理由です。それはピンク・レディーにとって(現段階では)最後の1位獲得曲になった『カメレオンアーミー』なのです。僕はこの曲こそ人気低下の理由…とまではいかなくても、僕はこの曲がピンク・レディーの人気低下の『きっかけ』になったのではないかと思っているのです。

阿久悠氏のネタ切れ

まずは楽曲提供側のマンネリですね。「もう子供向けのネタが切れつつあったから、大人路線に切り替えようという話になっていた」という言葉に代表される阿久悠氏のネタ切れ感が、この曲からは確かに滲んでおりました。

直前作『透明人間』と微妙に被る設定

それに『透明人間』の次が『カメレオン』というのは、指摘するまでもなくネタがかぶっていたのです。さらに『親衛隊へのアンサーソング』というコンセプトの歌詞でしたが、これもまた購買層の子供たちにとっては難解なものでした。

ダンスが難しかった

近々の再結成時に「ようやくカメレオンアーミーが踊れるところまで戻った」と2人は喜んでおりましたが・・・確かにこの曲のダンスの難しさはピンク・レディー史上最高のものだったのです。正直、現役バリバリの二人ですら、まともに踊れていないわけで、その難度たるや『フリを真似するちびっ子たちの存在を忘れてしまったのではないか?』というレヴェルだったのですな。これもまたマズかったと思います。

みんなの記憶が途切れる曲

ピンク・レディーの思い出を語る際に、同世代の多くの人(殆どの人)は、みんなシングル9曲目の『透明人間』までは確実に知っているのですね。いわば共通言語です。しかしながらそれが一転、『カメレオンアーミー』と聞くと「あー、なんだっけそれ?」「たしかにそんなのあったね」と、なんだか怪しくなってくるのです。ですのでそこから考えて、僕はピンク・レディーが真に斜陽を迎えたのは1978~1979年の『カメレオンアーミー期』だと考えるのですね。

1978年で終わっていた

『カメレオンアーミー』主犯説を長々と書いておいてアレなんですが…多くの人が主張する通り、僕もピンク・レディーの人気が急落した主因は、1979年のアメリカ進出で間違いないと思っています。あのプッツリ感がピンクレディーブームを葬ったのは確実な事です。しかし、それ以前にピンク・レディーの旬は過ぎていたというのもまた事実なのです。


1979年の春休みに、僕は母親に『東映まんがまつり』に連れて行ってもらいました。その時のメインは確か『龍の子太郎』だったと思うのですが、その時にピンク・レディーの短編映画も同時上映されたのです。まあ映画と言ってもピンク・レディーが豊島園かなんかで遊ぶだけの子供だましのものだったのですが…僕はその時それを観た、9歳の自分が感じた事を、今でもはっきりと覚えているのです。それは「今さらピンク・レディーかあ。他の人の方が良かったな」というものでした。

ピンクレディの今

解散30周年の2010年に「解散やめ!」宣言をして、本格的に二人の活動を再開させました。2010年代後半には、思い出深い(因縁深い)『レコード大賞』や『紅白歌合戦』に複数回出演し、全盛期の出演回数をすでに上回っているという人気ぶりです。
ミイさんとケイさんがグッドシェイプを保ち、全盛期と変わらないパフォーマンスを見せてくれることに感謝しつつ、いつまでもお二人には元気でいてほしいと願わずにはいられません。

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