【杉山清貴&オメガトライブ】大ブレイク直後の解散!その理由は? 1985 スキップしてメイン コンテンツに移動

【杉山清貴&オメガトライブ】大ブレイク直後の解散!その理由は? 1985

1985年の春にシングル『ふたりの夏物語』で大ブレイクを果たしたのが、本日の主役である『杉山清貴&オメガトライブ』です。彼らは続くシングル『サイレンスがいっぱい』もヒットさせ、その人気は頂点に達しました。しかし彼らはその直後に唐突な解散発表を行い、当時の世の中を大変驚かせたのでした。

翌年すぐにボーカルの杉山清貴さんがソロデビューしたこともあり、僕などは「売れた途端に仲間を裏切るなんて、杉山清貴という男は冷たいやつだな」などと、杉山さんに対して悪いイメージを持ったものでしたが…実際のところはどうだったのでしょうか?1985年のあの時に、一体オメガトライブに何があったのか? 今日はそんな噺です。


『きゅうてぃぱんちょす』

オメガトライブの前身バンドである『きゅうていぱんちょす』は、1980年に行われた『第19回ポップミュージックコンテスト(ポプコン)』において入賞を果たし、音楽プロデューサーの藤田浩一氏の目に留まります。当時は若手ミュージシャンの青田買いが盛んな時期でしたので、この『きゅうてぃぱんちょす』には他からも声がかかったのですが、自身の音楽に納得のいっていなかった彼らはそれを断り、ポプコンの次回大会に再度挑む事にしたのです。


しかし背水の陣で挑んだはずの『ポプコン20回大会』で、『きゅうてぃぱんちょす』は入賞すら出来ずに終わってしまいました。そしてそんな失意の彼らに声を掛けたのは、件の藤田氏でした。

オメガトライブ・プロジェクト

当時、藤田氏は自身が完全にプロデュースするバンドのデビューを画策しておりました、その『完全プロデュース』というものの定義を箇条書きしてみますと…

・バンド名、バンドイメージの決定
・作家陣のプリプロ(康珍化、秋元康、林哲司)
・エンジニアとスタジオミュージシャンの選定
・ジャケットなどビジュアルの制定
・タイアップなどのマーケティング
・音楽番組などへのプロモーション活動
・ボーカル、バンドのスカウティング

というものであり、その全ての決定権を藤田氏が持っていたのです。

バンドを演じるバンド

『きゅうてぃぱんちょす』へ藤田氏から出されたデビューの条件は「こちらから提供した楽曲を用いる」「バンド名を変更する」と言うものでした。バンドとしてのオリジナル性が著しく低くなることにメンバーは悩みました。ちなみに杉山さんは当時のことを「ミュージシャンを目指すにあたり4年で芽が出なかったら実家に戻ると約束していた。この時点で既に3年目だったので、もう後がないという思いはあった」とコメントしております。
最終的には林哲司さんから提供された楽曲が「あまりにもカッコよかった」ため、メンバーは藤田氏の条件を受け入れ『杉山清貴&オメガトライブ』としての、デビュープロジェクトが本格的にスタートしたのです。

成功が約束されたデビュー


レコーディングに呼ばれず

『杉山清貴&オメガトライブ』の路線は完全にリゾートミュージックであり、それに合わせて杉山さんも長髪のカーリーヘアから小ざっぱりした髪型と身なりになりました。当初はファーストアルバム収録曲の『海風通信』がデビューシングル候補でしたが、ギリギリの段階で藤井氏は再度練り直しをさせ、最終的に『SUMMER SUSPICION』に決定したのです。作詞は康珍化氏、作編曲は林哲司氏です。しかしながらレコーディングは完全にスタジオミュージシャンに委ねられ、オメガトライブのメンバーからはボーカルの杉山さんしかその場には呼ばれませんでした

手厚いプロモーション


藤田氏はプロモーションにも力を入れておりました。まずは東京音楽祭での受賞でバンドに箔付し、その後は『ザ・ベストテン』の『今週のスポットライト』及び『ザ・トップテン』の『話題曲コーナー』に彼らをねじ込み、一般層に強くアピールしました。その結果『オリコンチャート、ベストテン、トップテン』の3つともに10位以内を達成し、デビュープロジェクトは大成功に終わったのです。

当時の生活

当時の『杉山清貴&オメガトライブ』は給料制であり、事務所からは『新人アーティスト1人分』の給料として30万円が支給されておりました。それをメンバー6人で6頭分するわけですから、一人当たり5万円です。当然、生活していけるはずもなく、メンバーはデビュー後もアルバイトを掛け持ちしていたそうです。
杉山さんは当時、あの吉野家でアルバイトをしていたそうで、「オリジナルではないから印税もなかった。5万円では足りないので、デビュー後も半年はアルバイトも続けていて、SUMMER SUSPICIONが流れる店内で牛丼の盛り付けをしたりしていた」とのことです。

ドラマとタイアップ


翌年のバラードナンバー『君のハートはマリンブルー』は、ドラマ『年ごろ家族』の主題歌となりました。これもプロモーションした上でのタイアップですね。さらに彼らはこの曲で『夜のヒットスタジオ』への初出演も果たします。このような完璧といえる御膳立ての中で、この曲は『SUMMER SUSPICION』に続くスマッシュヒットとなりました。



彼らはこのヒットにより『一発屋』という呪縛からは逃れることができましたが、しかしながら、2年目になってもレコーディングに参加できるのは杉山さんのみで、他のメンバーはいまだに与えられた楽曲の演奏係』なのでした。そしてそれに対する不満がメンバーの中でどんどん強くなっていったのでした。

『ふたりの夏物語』が大ブレイク


1985年発売の第一弾シングルが、あの『ふたりの夏物語』です。藤田氏の手により事前にJALとのタイアップが決まっておりまして、その上で楽曲が制作されました。CM製作の関係で時間的余裕が全くない中の作業となりましたが、結果的にこの曲が『杉山清貴&オメガトライブ』の最大のヒット曲になり、彼等は大ブレイクを果たしたのです(作曲の林哲司氏は「わずか3日間で仕上た曲がオメガの最大のヒットになっちゃったんだから分からないもんだね」とのこと)。
『ふたりの夏物語』は全てのチャートで1位になり、彼等は各メディアに引っ張りだこになります。海外ロケも数多く行い、ツアーも大盛況であり、傍目からはバンドは絶好調に見えていました。

絶頂期での解散談義

一見、絶好調に見えた『杉山清貴&オメガトライブ』ですが、バンドからしてみれば、その成功はあくまでも藤田氏のプロデュースをなぞる形で進んでいるだけでおり、バンドの満足感からは程遠いものでした。それどころか成功の度合いが大きくなれば大きくなるほど、その要求をトレースするのが精神的に非常に困難になってきたのです。「苦労してやったところで…」という。
そういう状況に加え、この時期に杉山さんが結婚したというのも大きな出来事でした。杉山さんの作った楽曲というのは、
オメガトライブの中では、アルバムの収録曲のみで甘んじている状況でありましたので「そろそろ自力で勝負してみたい」という考えに、杉山さんが傾いていったのだろうと思われるのです。
『ふたりの夏物語』のヒットに沸くツアーのさなか、バンド内の飲み会において、杉山さんが年内いっぱいでのバンドの解散をメンバーに提案しました。残りのメンバーの5人の賛否は『解散3、継続2』に割れましたが、最終的にメンバーの満場一致で『1985年いっぱいでのオメガトライブの解散』を決めたのです(なおギターの吉田健二さんはこの話し合いを持って一足早くバンドを脱退しました)。

藤田氏も了承

藤田氏はバンドの解散の意向を聞かされ非常にがっかりしていたそうですが、一度言い出したら聞かないという杉山さんの性格知っていただけに、その申し出を受け入れたそうです。当時の藤田氏はオメガトライブに続き、菊池桃子のプロデュースでも大成功を収めている時期でしたから、経済的&精神的な余裕もあったうえに、最終的には「残留を望んだ人間には別ボーカルでオメガトライブを続けさせて、杉山のソロプロジェクトと合わせて、2つの路線でやっていこう」とポジティブにとらえていったそうです。

ラストアルバムとコンサート


プロジェクトの主要人物であった作曲家の林哲司氏は「いきなり終わるのではなく、ラストアルバム(FIRST FINAL)を作り、ちゃんとラストコンサートを行ったうえで解散しよう。それがファンに対する礼儀だ」と提案し、メンバーもそれに同意しました。
その後、1985年のオメガトライブはシングル「サイレンスがいっぱい」「ガラスのPALM TREE」、アルバム「ANOTHER SUMMER」「SINGLE'S HISTORY」「FIRST FINALE」とリリースラッシュし、同年12月24日の横浜文化体育館のコンサートをもって解散しました。

1986年のオメガトライブ

翌1986年に杉山さんはシングル『さよならオーシャン』とアルバム『beyond...』をヒットさせ、ソロアーティストとしての地位を確立します。一方、藤田氏はオメガトライブの2人の残留メンバーに加えて、秘蔵っ子のカルロス・トシキをボーカルとして起用した『1986オメガトライブ』をプロデュースし、こちらも大ブレイクさせます。

僕は当時、この流れをリアルタイムで視ておりまして「裏切りものの杉山清貴に対し、新ボーカルでブレイクを果たしたオメガトライブのメンバーは凄いなあ。これぞ正しく男の意地だね」なんて思っていたものですが、いままで述べた通り、それは誤解だったようです。杉山さん申し訳ないです。

オメガトライブの今


「メンバーとはいい時期に解散できたねって話しているんです。感情的にもつれたりする前に解散したから、再結成の話も気兼ねなくできるよねって」というのは杉山さんの言葉ですが、その言葉通りに『杉山清貴&オメガトライブ』は、21世紀に入ってから何度か再結成ライブをしています。他のメンバーも「オメガトライブは解散したけど(前身バンドの)きゅうてぃぱんちょすは解散してないからね」と、その動きを前向きにとらえているようです。直近のライブは2019年の日比谷野外大音楽堂です。今はコロナ禍で公演活動は難しいご時世ですが、『杉山清貴&オメガトライブ』のメンバーには、今後も仲良くライブをしていって欲しいなと思っております。

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