シブがき隊「昭和ジャニーズグループの栄光と挫折」1982-1988 スキップしてメイン コンテンツに移動

シブがき隊「昭和ジャニーズグループの栄光と挫折」1982-1988

 今日は昭和末期にひっそりと歴史を閉じたジャニーズグループについての噺です。

シブがき隊結成

「2年B組仙八先生」


1981年、ジャニーズ事務所所属の薬丸裕英さん、本木雅弘さん、布川敏和さんは、TBSの人気ドラマ「桜中学シリーズ」の「2年B組仙八先生」の出演者オーディションに合格し、主要キャストとして出演することになりました。


通年放送という長いスパンのドラマでしたので、悪ガキ役を演じた彼等の人気はぐんぐん上昇していきました。そして次第に事務所の先輩の「たのきんトリオ」の弟分的な活躍を期待されていくようになったのです。

公募&ジャニーさんが決めた名前

3人組の名称を雑誌の企画で公募することになりました。結果、投票数一位の「シブがきトリオ」というグループ名が選ばたのです。しかしその名前を伝え聞いたジャニーズ事務所の社長のジャニー喜多川氏は、その独特の閃きで「シブがきトリオ」という名称を「シブがき隊」と変えました。こうして晴れて「シブがき隊」が結成される事となったわけです。

1982年のトップアイドル


「シブがき隊」は1982年5月にシングル「NAI・NAI 16」でレコードデビューを果たします。この時点で彼等はすでに「王道の薬丸」「ハンサムな本木」「2枚目半の布川」と、いい感じに役割分担が出来ていました。そんな解りやすさも相まって彼等はすぐに売れっ子となりました。

花の82年組

シブがき隊がデビューした1982年は「アイドル豊作の年」であり、「花の82年組」と評されておりました。

最優秀新人賞

その新人アイドル激戦の年に「シブがき隊」はレコード大賞の最優秀新人賞を獲得します。これはあの中森明菜さんや小泉今日子さんらを抑えての受賞ですから、非常に価値のある賞でありました。彼等は「花の82年組」のトップランナーとして時代を築いていくことになります。


充実の1983年

ライバル不在

1983年は「新人アイドル不作の年」と呼ばれる年でした。その年に同じジャニーズ事務所からデビューしたのは、あの野村義男さんの「ザ・グッパイ」というバンド色の強いグループでしたので「シブがき隊」とは競合しなかったのです。
男性グループアイドルのライバルが不在だった1983年の「シブがき隊」は、二年目のジンクスなど全く感じさせない大きな活躍を見せていきました。

シングルヒット連発

この年の「シブがき隊」のシングル「処女的衝撃」「Zokkon命」「Hey! Bep-pin」「挑発∞」は、いずれもオリコンヒットチャートのトップ5入りを果たします。

年末の紅白歌合戦にも二年連続で出場し「挑発∞」を披露しました。

マルチアイドル

「シブがき隊」はアイドル歌手としての活動にとどまりませんでした。歌手デビューからこの年にかけての「シブがき隊」は、タレント活動の幅を積極的に広げていった時期で、彼等の主演映画が相次いで封切られたり、さらには現役アイドルでありながら歌番組の司会に抜擢されるなど、おのおのの場で「マルチアイドル」としてのスキルを高めていったのです。

YMOのパロディ

1983年はあの伝説のグループ「YMO」の活動最終年でもありました。この年はそんな彼等がテクノと歌謡曲の融合を図っていた年でもあり、そのパロディのモチーフとして選んたのが「シブがき隊」だったのです。「YMO」の三人は、シングル「君に胸キュン」のMVにおいて、「シブがき隊」の物真似を軽妙に行って大ウケし、商業的にも大成功を収めました。
これは当時の「YMO」の勢いというものと、さらには真似された側の「シブがき隊」の人気を裏付ける出来事だったと思います。

1984~1985年 安定期

ライバル登場

順風満帆だったシブがき隊の活動でしたが、少し風向きが変わってきたのは1984年のことでした。この年には吉川晃司さんとチェッカーズという二組の男性アイドルがブレイクするのです。彼らはそれまでのアイドルにはなかった楽曲の独創性と、さらには独自のファッション性で若者へと大きな影響与えていきました。彼らは女性ファンだけではなく「シブがき隊」が今ひとつ獲得出来ていなかった男性ファンをも取り込んでいったのです。

ジャポニズム路線

薬丸さんはのちに「吉川君とチェッカーズに確実にファンを奪われた」と語っていましたが、実際には、アーティスト色の強かった彼等とアイドル色が強かった「シブがき隊」のファン層は微妙に異なっていました。「シブがき隊」の王道アイドルぶりは、主にジャニーズファンを中心に変わらず好意的に受け入れられていましたし、当時の彼等の『ジャポニズム路線』というものも、まさに独自の面白さがあり、そのコミカルさは小学生などの低年齢層に大評判になっていたのです。それゆえこの時期の「シブがき隊」人気は、むしろ安定期に入っていたと言えます。

「アッパレフジヤマ」 ファンもノリノリです

モッくんのそっくりさん

当時の「シブがき隊」のエピソードの一つとして、僕の地元の「ふくしま わらじまつり」のメインゲストが「モッくんのそっくりさん」だったという事を挙げておきたいです。本人じゃなくてそっくりさんがメインゲストになってしまうところが凄いというか…そんな地元が恥ずかしいという気もしますが、僕の友達の女の子などは「きゃあきゃあ」言って喜んでおりました。はい。


1986 少年隊の衝撃

「仮面舞踏会」

「シブがき隊」の人気に一段落ついた時期の1985年の12月に、ジャニーズ事務所から「少年隊」がシングル「仮面舞踏会」でデビューしました。全てにおいて卓越した存在だった彼等は、デビューと同時に爆発的な人気を呼びました。


「仮面舞踏会」ヒガシのロンダードスワン宙返りが凄すぎ!
※ちなみに「シブがき隊」のメンバーはバック転すらできません。

この「少年隊」のパフォーマンスを目の当たりにした布川さんは「これは絶対に勝てないな」と素直に思ったそうです。この「仮面舞踏会」の衝撃はそれほどのものでした。ちなみに同時期の「シブがき隊」のシングルは、あの「スシ食いねェ!」でしたので、いやはや…まあ曲のタイプが違うので単純な比較はできないのですが…

「スシ食いねェ!」謎のテクノ

シングル売り上げの急落

ジャニー社長の秘蔵っ子グループである「少年隊」は、時間をかけてじっくりと育てられておりました。デビュープロジェクトも「少年隊」のメンバー本人を交え行っており、セルフプロデュース能力も相当なものがありました。そんな「少年隊」へのジャニーズ事務所の期待感は「シブがき隊」とは大きく違っておりました。その後「少年隊」はヒットチャートを独走し、1986年から88年の間に、8曲ものオリコンシングルチャート1位獲得曲をリリースしていったのです。

この「少年隊」のブレイクというものは、当然のことながら「シブがき隊」の人気に大きな影響を与えます。具体的な事例として、この1986年からシブがき隊のシングルの売り上げが目に見えて落ちてきたのです。当然のことながらランキング番組への出演も減っていき「シブがき隊」に斜陽期が忍び寄ってきました。

紅白落選からの代役出場

そしてそれを証明するかのごとく、この年の紅白歌合戦の出場メンバーに「シブがき隊」の名はありませんでした。デビュー以後、初の紅白落選です。それゆえに年末はハワイでバケーションを取ることにした3人でしたが、そこに急転直下の報がもたらされます。
それは『反社会性力とのつながりが判明した一部の演歌勢が紅白を辞退。その代役に指名されたのがシブがき隊』という報道だったのですね。それが発表されたのは紅白前日の12月30日でした。寝耳に水状態だった3人は急遽ハワイから帰国し、大晦日の紅白歌合戦に出場したのです。
急なオファーにもかからず代役をこなしたシブがき隊は「紅白のピンチを救った」と賞賛されましたが、通常選出においては落選だったのは間違いないことであり、布川さんなどは案外冷めた気持ちで過ごしていたそうです。

1987年 苦しみの中で  

悲惨なホノルルマラソン

モッくん完全に脱水症状です

1987年。フジテレビのホノルルマラソンの特番に「シブがき隊」は「ザ・ドリフターズ」とともにメインゲストとして参加します。が、しかし、3人とも途中リタイアという残念な結果に終わってしまいました。もしかして六本木での不摂生が祟ったのでしょうか?。この時は高齢の いかりや長介さんや仲本工事さんなどが完走しただけに、余計に「シブがき隊」の体たらくは情けない印象が残ってしまいました。

光GENJIデビュー

同時期にジャニーズ事務所から「光GENJI」がデビューしました。彼等は社会現象と呼ぶべき爆発的なブームを巻き起こし、「ピンクレディ以来」という空前の売り上げを記録していきました。

紅白完全落選

「少年隊」と「光GENJI」というモンスターグループに押し出される形となった「シブがき隊」は1987年度の紅白歌合戦を落選するという憂き目にあってしまいました。そして土壇場で代役出場が叶った前年度のような出来事は、今度は起きませんでした。
紅白の完全落選。これは厳しい言い方をすれば、アイドル歌手としての彼等の賞味期限が切れてしまったことを意味していたのです。

バブル期にソロ活動

フッくんがドラマでブレイク
この頃すでに布川さんはシブがき隊の解散を意識して周囲に公言していたそうです。もともと家業があった布川さんは「当時の感覚だとアイドルは若いうちにしかやれないものだった。人気があるうちにきっぱりやめて、親父の後を継ごうと思っていた」と当時の心境を語っています。


しかし時代は意外な形で布川さんの背中を押しました。
バブル期は「女性の自立」の時代でもあり、テレビドラマなどでは「自立した強い女性」が主役になっていました。その相手役の男性に「押しの弱い2枚目半」というキャラクターが求められたのですが、それに布川さんのキャラクターがピッタリはまったのです。布川さんはバブル期にドラマに出ずっぱりになり、それはその後のキャリアの大きな糧にもなったのでした。

モッくんに美男子特需
バブル期は「強い女性」の時代という反面、男女のユニセックス化が進んだ時代でもありました。男性が美容室に行くようになったのもこの頃であり、資生堂から男性用化粧品が発売され、出版業界からは「メンズノンノ」が創刊されたりしました。

風間トオルさんや阿部寛さんといった男性モデルがもてはやされる中、芸能界でこの流れに乗ったのが本木さんだったのです。
本木さんはバブル期を代表する二枚目としてアイコン化されていきました。野暮臭かったファッションもDCブランドものになり、髪形も「真ん中分け」や「もみあげ残し」という「本木オリジナル」を折に触れて披露し、日本中の男子に本木ファッション流行らせていったのでした。


ヤッくんの焦燥
オプティミストの布川さんと、ナルシシストの本木さんが、おのおのバブルという時代とうまくアジャストしていく中で、生真面目な薬丸さんは「シブがき隊」の活動にこだわっていました。
薬丸さんはチェッカーズや吉川さんと遊び歩いている布川さんと本木さんに「自分たちのファンがどれくらい持っていかれたと思っているんだよ」「アイドルが目立つところで遊び歩いているんじゃないよ」と説教し、「シブがき隊」であることの自覚を促しました。しかしそれにより薬丸さんと他の二人の間に、修復不可能な溝が生まれていってしまったのです。

1988年 シブがき隊「解隊」

1988年は芸能史的には「光GENJIの年」と言われる年でした。そんな中でジャニーズの序列は「トシちゃん、マッチ、少年隊、光GENJI」というものになっており、「シブがき隊」は各種の音楽番組の中で居場所を失っていました。

ふくしまフェスタ


今も続いているらしい「競馬場ふくしまフェスタ」

この年、僕の地元で「地方競馬場のお祭りイベント」が行われたのですが、そのメインゲストとして「シブがき隊」が登場したのです。今度はそっくりさんではありません。まごうことなき本人たちです。そんなわけで僕はまたしても物見雄山で観に行ったのですが…その特設ステージの粗末さと、まばらな観客の寂しさと、さらには活動末期の「シブがき隊」そのものの侘しさが相まって、なんとも物悲しいライブ風景になっておりました。僕はそこで「あの時はそっくりさんが大人気だったのになあ」とか「シブがき隊もいよいよだなあ」などと、実にしみじみと感じていたのです。

解隊会議


このような状況で本木さんから2人に「シブがき隊脱退=解散」の意思が告げられます。それを受けて軽井沢にシブがき隊の三人と関係者数名が集まり、解散するか否かの会議が行われました。そこでは解散を主張する本木さんと、存続を主張する薬丸さんで意見が対立しましたが、最終的に本木さんの意志の強さを感じた布川さんが、解散賛成の方の流れに乗ったことにより、ここでシブがき隊の解散が正式に決定しました。

解隊宣言

その直後「シブがき隊」は新宿厚生年金会館のライブにおいて「解散宣言」ならぬ「解隊宣言」をします。そして3か月後の代々木のライブがラストステージになることも発表されました。その報にファンは悲しみましたが、一般的には「確かにそろそろ解散だよね」という感じで、実に落ち着いた受け入れられ方をしておりました。

「シブがき隊」はジャニーズ事務所からも認められる形での「円満解散」でありました。事務所からしても、同じ時期に「男闘呼組」のデビューイベントを控えており、所属のアイドルグループが飽和状態になりつつありました。その折での「シブがき隊」からの解散の申し入れは、正に渡りに船という感じもあったのです。

ラストシングルがお蔵入り

それから三か月に満たない日々が過ぎていきました。バブル絶頂期ではありましたが、当時の天皇陛下(昭和天皇)の体調悪化問題がおこり、解散そのものを大きなイベントにし辛い状況になっていました。さらにはラストシングルとされていた「サヨナラだってお祭りさ!」は「不謹慎である」という理由でお蔵入りとなり、「君を忘れない」に差し替えられるという出来事もありました。そのような状況で特に大きな「解散需要」もないままに、「シブがき隊」は11月の解散ライブへと向かっていったのです。



代々木競技場での解散ライブ

ライブ前日の1988年11月1日。「シブがき隊」は、メンバー三人だけで会食に行きました。その頃になると三人でのプライベートな行動は全く無くなっておりましたが、「最後だから」という理由で薬丸さんがその場を設定したのでした。

翌11月2日、代々木第一体育館の解隊ライブをもって、彼等は「シブがき隊」の幕を下していきました。この解散ライブはリアルなものであり、この日を最後に、シブがき隊の三人が顔を合わせる事はありませんでした。

ラストライブ
 

なぜシブがき隊は解散したのか?

 
これに関しては各人が証言しております。

 
本木雅弘さん
「15歳でドラマデビュー、翌年にアイドルグループ『シブがき隊』で活動し始めました。デビューイベントがデパートの屋上だったんですけど、恐ろしい数の女の子が来ていて、こんな若造に熱狂することに引いてしまった。以来、物事を俯瞰して見てしまうことがありました」
「辞めたいと言ったら、布川さんは『本木が言うならいいよ』と言ってくれました。薬丸さんは続けたいという気持ちがあったと思います。私が暴走して解散という結果になった」
 
薬丸裕英さん
「チェッカーズ、吉川晃司、少年隊の出現で、われわれはファンを取られたっていうのは、紛れもない事実。なのに、チェッカーズと本木、布川が仲良くしてるから、それはおかしくないかと憤慨していたら、シブがき隊が2対1に別れてしまった」
「今後の方向性の話になった際、ある人(本木)から『辞めたい』という話があって、『僕はそれぞれにソロで仕事しても、また3人で戻ってきて、特番やったり、グループの活動すればいいじゃないか』って考えでまとめようとしたんですけど、そこも2対1で意見が分かれてしまった」
 
布川敏和さん
「もともとTBSが選んだ3人で、ジャニーさんがセレクトしグループではなかった。給料は親に振り込まれていたのでプロ意識もあまりなく、逆にちゃんと仕事をしたかったので、自分はかなり早い段階から辞めたいと言っていた」
「なだめられて続けていたが『少年隊』の出現で『俺ら終わったな』と感じ『このままシブがき隊として、おじいさんまでやっていけるのか?どうせなら人気のあるうちに解散しよう』と、3人で話し合って決まった」
「最初は3人とも仲が良かったが、ヤッくんとは『チェッカーズにファンを取られたのに、なんで仲よく遊んでいるんだ!」と怒られたりして、途中から仲が悪くなった。モッくんは『B型の間にいるA型は辛いよ』と漏らしていた」
 
というわけで、3者の話にはそれなりの一貫性がありますね。
 

その後のシブがき隊

シブがき隊は円満な形で解散したため、退所独立後もジャニーズ事務所と3人の関係は良好でありました。そのため「2年縛り」に代表されるような業界の忖度の影響も受けず、スムーズにソロ活動に入れていたのです(布川さんなどはジャニーさんから次の事務所を紹介されていたほどだった)。

モッくん


【1990 CM】大塚ベバレジ シンビーノ・JAVATEA

 むしろシブがき隊が足かせだったモッくんは解隊を期にイケメン路線で大ブレイク。バブルを代表する二枚目タレントになりました。その後の映画の世界での活躍ぶりは皆さんも御存じの通りです。

フッくん
ドラマでの二枚目半路線がウケたフッくんは俳優活動を中心としていきます。30歳からは布施博の劇団に加入し、そこで役者のスキルを高めつつ、バラエティーなどでも活躍していきました。

ヤッくん


食糧庁 ごはん食PR CM 【薬丸裕英】 1990

そしてそのどちらにも舵を切れなかったヤッくんは「仕事に行くふりをしてジムに行っていた」という不遇の時代を迎えてしまったりしますが、90年代半ばに番組MCで才能を開花させ、自分の立ち位置を確立していきました。


解隊後の競演

はなまるカフェ編

解隊後、3人どころか2人が揃うこともなかった「シブがき隊」ですが、20年の時を経て、薬丸さんが司会を担当していた朝の情報番組「はなまるマーケット」の「はなまるカフェ」にて、本木さん、布川さんと、それぞれでの共演が果たされました。

フッくん編1(2002年、2004年)
解隊後、正真正銘の初顔合わせとなり、布川さんも緊張していたそうですが「岡江久美子さんが間に入ってくれて和やかムードになった」とのこと。さらにこの回は高視聴率で社長賞をもらったそうです。

モッくん編 (2003年、2008年)
よそよそしくお互いに敬語でしゃべっていたのは、なんとも寂しくもありましたが「男関係あるあるだよな」とも感じました。子供の話をきっかけに、時間が経つにつれてお互いに慣れていく感じはよかったです。

フッくん編2(2009年)
「シブがき隊」の再結成にかなり前向きの布川さんに対し、ちょっと引いた感じの薬丸さんが印象的でした。

モッくん編2(2009年)
本木さんが主演した「おくりびと」のアカデミー賞外国語映画賞の受賞式のリポートで、スタジオの薬丸さんがロサンゼルスの本木さんにインタビューを行いました。

ぴったんこカンカン編

薬丸さんがパネラー出演していた番組です。

シブがき隊(2012年)
本木さんのドラマのあからさまな告知企画ではありましたが、ついに解散後初めて「シブがき隊」の3人が揃う・・・と思いきや、大人の事情で「VTR越しの初共演」という形になっていました。スタジオの薬丸さんに対して、残りの二人はそれそれ別に沖縄からVTR出演。本木さんはドラマで共演する松たか子さんと沖縄の観光レポートを行い、布川さんの方は家族の皆さんとともに「シブがき島(人気絶頂時に命名された沖縄の島で三人の記念像がある)」を探索するというものでした。

ヤッくん、モッくん(2015年)
またしても薬丸さんがスタジオで本木さんがVTRという形でした。双方「シブがき隊」について積極的に発言しています。

「布川さんのブログとかのぞいて『あっ何か私のこと言ってる』とか見たりして。薬丸さんも『はなまる』終えてからこういうことになったんだな、とかチェックしてます。それでお互い頑張っていることを確認できて、それで十分って感じです」(本木さん)

「時の流れを感じますよ。だってわれわれ3人で11人の子供を育ててるんですよ。布川くんとこ3人、本木くんのとこ3人、うちは5人いるわけですから。サッカーチームできますね」(薬丸さん)

「シブがき隊」再結成はあるのか?

「シブがき隊」の解隊時は「解散したい派」の本木さん布川さんと「継続したい派」の薬丸さんが2対1で別れてしまいましたが、現状は「再結成に前向き」の布川さんと「再結成はしなくていい」という薬丸さん本木さんの1対2で分かれてしまっています。

現状を考えれば「シブがき隊」の再結成は無いように感じます。そしてこれは個人的な予感ですが、将来的にもそれは無いような気がするのです。もちろん寂しいことではありますが、今の3人を観ていますと、それはそれでいいような気がします。




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