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ガチンコ、セメント【プロレス不穏試合まとめ】シュート、ブック破り

 


「プロレスとは『底が丸見えの底なし沼』である」井上義啓(元ファイト 編集長) 

 

 「プロレス」とは原則的に筋書きのある闘いですが、時にはそうではない戦いが出現します。本気でやりあってしまう「ガチンコ」「シュート」「セメント」。何らかのミスにより「決まっている結末」に導かれない「事故試合」。さらには確信犯的な「ブック破り」など・・・それらは【不穏試合】と称され、プロレスファンの間では、そんな「危ない試合」に関する「謎解き議論」が、日々尽きる事がありません。

 

ここでは知る人ぞ知るプロレスマニアであり、さらにはこの「不穏試合」という言葉の生みの親であるころまろ(実話)が、数々の不穏試合をご紹介していきたいと思っております。

 

※なおこの記事は随時追加更新致します※



力道山対木村正彦 


昭和の巌流島 元祖不穏試合 

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1954年に行われたプロレス日本選手権【力道山対木村政彦】。
木村の前蹴りが下腹部に当たった事に激高した力道山が、張り手の猛ラッシュで木村を完全KOした。

 


1954.12.22 プロレスリング日本選手権 "昭和の巌流島"

 

そもそも引分けになるはずだった試合で覚書も存在しています (とはいえ力道山側の著名捺印はされておりません)。この試合の背景に関しては今も色々な説がありますが、試合そのものは、典型的な「片方がプッツン」したパターンの試合でありまして、個人的に言わせてもらえば、あまたの「陰謀論」はあまりそぐわない試合に感じられます。


動画を見る限り『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』などに代表される「実際に最初から真剣勝負をやれば木村が絶対に勝つはず」というような意見には非常に疑問が湧いてきます。

とにもかくにも二人の体格差がありすぎます。そして不意打ちだという面を差し引いても、木村選手が力道山選手の怒涛の打撃攻撃というものに、本当に全く対応できていないのですね。そのことが強く印象に残るのです。そしてこれを視る限り、もし最初から互いにガチンコでやっても、この力道山選手のラッシュを避けて、木村選手が組み技や寝技に持っていく事は不可能だったのではないかと感じさせられます(実際に木村選手は2度タックルを切られています)。


木村氏の力道山に対する恨みは相当深かったようで、力道山が暴漢に刺されて亡くなった際、木村氏は「私の怨念が力道山を殺したのでしょう」と語ったとされています。


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馬場正平(G馬場)VS ミスター珍


ジャイアント馬場の新人時代

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 馬場がまだ本名だった1961年に行われた【馬場正平対ミスター珍】。初戦で失神KOさせられたミスター珍が、再戦で馬場の胸に噛み付き食いちぎるという報復を行った。

 

初戦では新人の馬場選手が蹴りの加減を間違えてしまい、珍選手ががいびきをかいて昏倒し病院送りとなってしまいました。あくまで事故試合だったのですが、先輩の珍選手はそれに怒り、再戦でシュートを仕掛けたという不穏試合の二重構造になっているのです。

この試合で負った馬場選手の傷は生涯消えないものであり、その後のプロレス観に大きな影響を与えたとされる試合です。そして馬場選手の「シューティングを超えたものがプロレス」という基本理念の基にもなっています。


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 ジャッキー佐藤VS神取しのぶ(忍)


フル動画公開で議論再熱

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1987年の【ジャッキー佐藤 対 神取忍】。握手から綺麗に始まった試合だが、開始直後から神取がナックルの連打で追い込み、グラウンドでも一方的に関節技で圧倒していった。ジャッキーは一時、試合放棄状態になるも、何とか試合そのものは成立し、最後は腕がらみで神取が完勝した。


伝説のケンカマッチ 神取しのぶvs.ジャッキー佐藤

 

当時、もともとギャラ問題でもめていた両者でしたが、そんな中で、目の怪我で負傷欠場を訴えた神取選手のことを、「ワガママ」と捉えたジャッキー選手が、その日のタッグマッチにおいて、制裁含みの打撃攻撃を敢行するという事件が勃発したのです。

それにより両者の関係は決定的に悪化しまして、神取選手はフロントにジャッキー選手とのシングルマッチを要求します。そしてそれがすんなり実現してしまったという試合ですね。正直、試合を組んだジャパン女子プロレスのフロントがどうかしていると僕は思います。



試合直後に神取選手は失踪。その後、フリー宣言をしてジャパン女子プロレスと契約問題で揉めますが、同団体の崩壊を期に、風間ルミ代表が率いる「LLPW」の旗揚げに参加することとなります。
一方のジャッキー選手は、この試合の4か月後にジャパン女子プロレスに復帰します。そしてフリー契約で数試合行った後、翌1988年に引退しました。


この試合については「あのおっかないジャッキーさんをやっつけたというのだから、神取というのは凄い奴なんだなと思っていた」と北斗晶さんが証言しているのも興味深いです。


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北尾光司VSジョンテンタ


暗黒のSWS神戸大会その1

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1991年の【北尾光司対ジョン・テンタ】の2連戦の2戦目。試合序盤から不満顔の北尾が喉輪などの危険攻撃を繰り返し、途中からはサミングポーズのままテンタを威嚇。最後は間に入ったレフリーに暴行し反則負けになった。

 


【プロレス】北尾vsテンタ【この八百長野郎!事件】

試合後、北尾選手はリング下から「お前なんて八百長じゃねえか!八百長野郎!」とおきて破りのマイクアピールします。それにより北尾選手はSWSから解雇されました。


相撲時代の実績は横綱だった北尾選手の方が、三段目で廃業したテンタ選手よりも圧倒的に上でした。それゆえ、北尾選手からすれば、そんな格上の自分が2連敗するという筋書きはとても受け入れがたかったのです。さらにそのストーリーを書いたのが、同じく相撲出身のカブキ選手だったという事が、この北尾選手の不満をよりいっそう高める要因になりました。


実はこの試合において、テンタ選手はほとんど何もしていないのですが、噂が噂を呼び「日本でとんでもないシュートマッチをした」と、アメリカで一目置かれるようになったらしいですね。

 

※新情報2019.10.13
船木選手のYoutubeによると、試合後のバックステージにSWS田中社長夫人が現れ、「なんなんですかこの試合は?」と文句を言ったところ、北尾選手は「うるせえババア!」と椅子を投げつけて、危うく夫人に当たりそうになったとの事です。やっぱり北尾選手はとんでもないですね。


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キラー・カーンVS藤原喜明 


テロリスト前年の不穏試合 

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1983年の【キラーカーン 対 藤原喜明】。前座レスラーだった藤原が、当時のトップスターだったキラーカーンに関節蹴りなどの危険攻撃を仕掛ける。カーンは全く対処できず右往左往するのみで、その不穏な様子に気がついた長州とマサ斉藤が突如乱入し、試合を強引に終わらせた。

 

藤原選手がテロリストとしてブレイクする前年の話でありまして、いち前座レスラーに対し集団で襲い掛かる維新軍団の様子は、とても不自然なものでした。
これはモンゴリアンキャラでブレイクしたカーン選手が、持ち前のビックマウスぶりで調子に乗っているところを前座の鬼が制裁したとされる試合なのですが・・・

 

実際はカーン選手が他の試合で入場する際に、セコンドの藤原選手が階段を逆さまに取り付けてしまったことがトラブルの発端なのです。

 

カーン選手が「俺に嫉妬してわざとやったのだろう」と暴言を浴びせた事により藤原選手がプッツンし、マッチメイカーだった坂口選手(カーン選手と不仲)に直訴して、この試合が実現してしまったそうです。ちなみに現在は和解しておりまして、藤原選手はよくカーンさんの店に飲みに行くらしいですね。

 

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アントニオ猪木VSグレートアントニオ


伝説の密林王をノックアウト

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1977年の【アントニオ猪木対グレート・アントニオ】。

すでに50歳を超えていた密林王は猪木の試合の動きについていける状態ではなかった。噛み合わない試合展開が続く中、猪木が突如激高し、プロレスの範疇を超えたストンピングの連打で密林王を完全KO。密林王にとって、この試合が生涯最後のプロレスになった。

アリ戦の負債を支払うのに必死だった時期の新日本プロレスが苦肉の策でひねり出した試合です。サーカスでの怪力自慢が本業だったグレート・アントニオ選手を16年ぶりに来日させ、白髪染めで年齢を誤魔化し蔵前の大舞台で猪木と対戦させたというものです。

そもそもプロレスの出来ないグレート・アントニオ選手相手には、KO決着しかありえませんでした(TVではKO時間当てクイズまで行われていました)。それゆえ結果だけ見ればおろらくは筋書き通りの決着なのですが・・・そのフィニッシュのストンピングは常軌を逸したものだったのです。

色々説があるのですが、映像を視る限り、スムーズなタックルからストンピングの流れ、さらにはリングでの立ち居振る舞いを見ますと、この試合はいわゆる「激昂系」とは違って、猪木選手は最初からハードヒットでKOするつもりだったのではないかと考えられると思います。

 

※新情報(2015年7月12日)
このシリーズ中、アントニオ選手は同時期に来日していたアンドレ・ザ・ジャイアント選手と、何度かトラブルを起こしていた模様です。試合の背景にはそれに対する制裁の意味合いもあるかもしれないですね。


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田村潔司VSゲーリー・オブライト 


第2の前田vsアンドレ

 1995年の【田村潔司 対 ゲーリー・オブライト】。入場時に椅子を投げ入れるという、いわゆる「U系」に有り得ない行動をしたオブライトが、そのまま試合でも相手の田村にセメントを仕掛けた試合。

 

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オブライト選手の「ブック(プロレスの試合の筋書き)通りの試合はしない」という強固な意思を感じ取った田村選手は、そこからキックを主体に猛反撃します。スタミナ切れしたオブライト選手は打つ手が無くなり試合放棄状態に。最後はスリーパーで田村選手が勝利しました。

当時のUインターはオブライト選手に見切りを付けており、遥かに格下に思われていた垣原選手相手にもジョブをさせられるような待遇になっていました。この試合も田村選手が勝利する予定でしたが、試合前の「格闘技色の強い試合で行く」という田村選手の発言を「シュート宣告」と誤解したオブライト選手が「だったらやってやる!」と態度を硬化させ、結局セメントマッチになってしまいました。

試合後、勝った田村選手はリング上で涙し、試合をまとめきれなかった和田レフリーも控え室で号泣したそうです。それまで水面下だったUインターの内部崩壊が表沙汰になった試合でした。


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 ブルーザー・ブロディVSレックス・ルーガー


大物同士の海外不穏試合

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1987年の【ブルーザー・ブロディ対レックス・ルガー】。米マットで人気のゲージマッチで行われた試合だが、試合途中からブロディが謎の無気力ぶりでルーガーの攻めに反応せず、困り果てたルーガーがレフリーに暴行する形でとっとと試合を終わらせた。ルーガーは試合後シャワーも浴びず帰路へ。この試合を最後にフロリダNWAを離脱した。


Luger vs Bruiser Brody Cage Match Shoot

 

キャリア的には当時のルーガー選手は新人のカテゴリーに含まれる存在でしたが、バックステージでは大卒のインテリとして、大先輩のフレアー選手にも臆せずに意見するようなタイプだったらしいのです。それゆえブロディ選手との関係については、そのあたりを発端とするような様々な憶測がされているのですが・・・こと実際の試合の映像を見る限り、実はそういう難しい背景の試合ではなかったのではと思われるのです。

 

ずばりこの不穏試合の原因は「試合中盤のフェンスへの叩きつけの際に、誤ってブロディ選手の顔が固いフェンス部分に当たってしまった事」だと思います。それ以後、明らかにブロディがセル (相手の技に対するリアクション) をしなくなるのです。

 

この後、クロケットプロ入りしたルーガー選手は、ここから出世コースに乗ってWCWの王者に君臨する事になります。一方のブロディ選手は翌1988年、プエルトリコでホセ・ゴンザレス選手に刺殺される事となました。この試合はそんな両者の一瞬のすれ違いでした。

  

※新情報(2019年7月12日)
ルーガー自身がこの試合についてインタビューで語っております。


Lex Luger on Bruiser Brody Incident


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 前田日明VSアンドレ・ザ・ジャイアント


不穏試合の代名詞

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1986年の【前田日明対アンドレ・ザ・ジャイアント】はプロレスのシュートマッチの代表格とされる試合。冷たい表情のアンドレに異変を感じて途惑う前田。アンドレは一切のセルを拒否し、いざ組んでからも、全体重をかけた押しつぶし、首折、喉輪、サミングなどの危険攻撃を繰り返した。藤原の「潰されるぞ」の声に腹を決めた前田がスイッチオン。関節蹴りや、膝狙いのローキックを繰り返し、最終的にはアンドレを戦意喪失に追い込んだ。

 



もともとはアンドレ選手が18文キックからのヒッププレスで勝つと予定されていた試合で、前田選手もそれを了承していました。試合拝啓については様々な陰謀論が出ていますが、近年の研究では「酒に酔ったアンドレ選手の単独犯行」で、ほぼ間違いないとされています。

当時、新日に参戦していた外国人選手から「あいつはセルしない」「危険な攻撃を入れてくる」「へたくそで危なっかしい」と、前田選手の評判はとても悪かったのです。それを聞いたアンドレ選手が、外国人のボスとして「前田選手を懲らしめてやろう」とシュートに走ったという話であり、そうであるとすると全ての謎のつじつまが合ってくるのです。

しかしながら、この試合に対する外国人選手の意見は、我々の認識とは全く異なっており「前田は前々から名前を挙げようとシュートのチャンスを狙っていた。あの日のアンドレは体調がすごく悪かったので、それを知った前田が仕掛けたのさ」というマスクド・スーパースター選手の証言には驚かされます。そしてそこからは、当時の新日本体、UWF、そして外国人軍団の3グループが、それぞれがそれぞれに対し、大きな疑心暗鬼に駆られていたことが伺えるのです。

 

※新情報(2016.4.27)
前田氏の新たな証言「徳島の試合でアンドレが猪木さんとの試合前に飲みすぎてコントロール不能になり、しまいには阿波踊りを踊りだしてしまった。それで困った猪木さんは他の外人選手を乱入させて強引に試合を終わらせたということがあった。それを見ていたからこの試合もそういう風になるのかなと結構冷静に考えていた」

 

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スーパー・タイガーVS前田明(日明)


旧UWF崩壊の象徴 

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1985年の【スーパータイガー 対 前田明】。旧UWF最末期の不穏試合。仕掛けたのは前田で、通常とは異なるガード主体の構えから、強烈な張り手やローキックで序盤からスーパータイガー(佐山)を追い込んでいく。スーパータイガーもなんとか試合を立て直そうとするも、頑なな前田の心を動かす事はできず、結局、自らレフェリーに金的攻撃を訴え(本人曰く「当たってません」とのこと)、反則勝ちで試合を終わらせた。佐山はこの試合を最後に旧UWFを離脱し、それにより旧UWFは自主興行団体としての活動を終えることになった。

 

www.nicovideo.jp

 

当時の佐山選手は、このUWFを「エンタメ性の強いプロレス」から「真剣勝負のシューティング」へ移行させる事に集中していたのです。しかしながら理想を急ぐあまりの彼の強引な手法に、他選手は拒否反応を示しました。さらにはUWFと新日本との合併話も持ち上がっていった最中の事で、双方の間の溝は埋めようがないものになっていました。

 

それゆえこの試合は「プロレスのシュート化をやめさせるべくシュートを仕掛ける前田」と「シュートになりつつある試合を『これはプロレスだぞ』と諭す佐山」という、実に奇妙な不穏試合になっているのです。

 

※新情報(2015年7月12日)

上井文彦氏の証言によると、この試合の2ヶ月前の両者の対戦(映像資料なし)も不穏試合だったそうです。そして当時、前田選手にシュートを炊き付けていたのは、フロントの伊佐早敏男氏(故人)だったと断言もしています。


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橋本真也VSヒロ斉藤


破壊王 若き日の暴走

1987年の【橋本真也対ヒロ斉藤】。当時のヒロ斉藤は長州軍団の切り込み隊長であり、いち新人レスラーの橋本よりもあきらかに格が上だった。しかし格下の橋本が斉藤の攻撃を全く受けず、そればかりか手加減無しの打撃やグラウンド攻撃を繰り返すという暴挙。それにより最終的に斉藤が手の甲を骨折してしまったという試合(試合はセントーンで斉藤のフォール勝ち)。

 

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当時は全日本から長州軍団が新日本へUターンしてきた直後でした。当然、その出戻りを歓迎しない人間も多かったわけです。そんな中、ベテランの荒川真選手が若くて一本気な橋本選手を焚き付けた・・・というのが通説になっています。

橋本選手の掟破りに対する長州軍団の怒りは凄まじいものがあり、試合後の控え室では長州選手とマサ斉藤選手が橋本選手を制裁しました。そのことを逆恨みした橋本選手は、しばらくの間、復讐するための刃物を隠し持っていたという話です。

※新情報(2016年4月14日)
ヒロ斉藤選手本人の証言によりますと、当時は新日マット全体がハードヒットだったため、この時に「仕掛けられた」という意識は全くなかったとの事です。それゆえ骨折させられた橋本選手の蹴りも「自分が受けそこねたゆえの事故」だと思っていたそうで、橋本選手が控室で制裁を受けた事を後で知って驚いたとのこと (斉藤選手は病院で手の治療していた)。

 

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アントニオ猪木VSパク・ソンナン 


1976年のA猪木その1

 1976年【猪木VSパクソンナン】。韓国プロレス協会がアリ戦で知名度が上がった猪木を招聘し実現した試合。この試合で凱旋帰国したパクに箔をつけ、韓国プロレスを盛り上げようというのが目的だった。

韓国側は二連戦のうち、一試合は花を持たせてもらおうという魂胆だったが、猪木は拒否。大邱の試合でシュートを仕掛けパクをリンチ状態に。その影響で翌日のソウルでの試合では、怖気づいたパクが試合開始になっても登場せず、結局、無気力試合であっけなく敗北。試合後会場では暴動が起こった・・・というのがこれまでの定説であった。

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そもそも猪木選手は最初からこの興行に乗り気ではなかったのです。しかしながら『アリ戦の借金返済』&『韓国と日本の大物プロモーターの顔を立てる』&『当時の韓国の大統領の朴正煕がプロレスの大ファンだった』という3つの理由により、結局韓国遠征が実現する事になりました。


2試合中、不穏試合は大邱での初戦でした。これは勝敗の交渉がまとまらないうちに試合開始時間になってしまい、猪木選手がプッツンしてしまったというものです。経験の浅い韓国セコンドは「セメントだ!」と空気を読まず盛り上がりましたが、あくまでパク選手自身は「プロレスはプロレス」という大人のスタンスであり、試合も同様のファイトマナーでした

しかし試合は『ナックルが顎に入った』という猪木選手の言いがかりのようなシュート宣告 (猪木選手の師匠である力道山の木村戦に酷似) により、実に陰鬱なものになってしまいました。

バックマウントからのフェースロック(プロレスはマウスピースを着用しないため口内がズタズタになる)から脊髄へのエルボー&背後からのサミング、さらには肛門に指を突っ込む(※坂口証言)という攻撃にパク選手は戦意喪失します

 

試合をさばいていたミスター高橋氏が猪木選手にやりすぎを警告しますと、猪木選手は「うるさい!ガタガタ言うとお前も潰すぞ!」と言ったそうで、高橋氏は「この人は〇いすぎていて手が付けられない」と感じたそうです。

 

そんなわけでこの試合は一方的に猪木選手が攻めたままノーコンテストに終わりました。

 

そしてここからが定説と異なる部分なのですが、実は猪木選手はこの最初の試合後、パク選手に対して自身のやり過ぎを詫びているのです。それに対してパク選手は謝罪を受け入れ、翌日の試合をやる方向で話はまとまったとのこどです。

 

そして翌二戦目。前日の経緯もありパクサイドは「今回の試合はパクの勝利。どうしても駄目なら両者リングアウトの引分け」という要求をするのですが、しかし猪木選手はそれを断固拒否したのです。韓国では試合が生中継されていたこともあり、パク選手が最後には「じゃあリングアウト負けならジョブしよう」と、自分の敗北を受け入れたというのがこの2連戦の真相らしいですね。


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鈴木みのるVSアポロ菅原 


暗黒のSWS神戸大会その2 

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1991年の【鈴木みのる対アポロ菅原】。SWSと藤原組の対抗戦に組み込まれた試合。活きの良い若手の鈴木が、何故かベテランのアポロとする事になり、案の定、不穏試合になった。

一貫して、手四つを誘うアポロに対し、鈴木は掌低の構えを崩さず試合は平行線の様相。時折顔面にヒットする鈴木の掌低に露骨に嫌悪感を示すアポロ。その後、ロープ際で揉み合った際に両者はなかなか離れず、それを振りほどいた鈴木が再び掌底をヒットさせるとアポロはリングを降り、試合放棄裁定が下る。

試合後鈴木は号泣。アポロはリングを降りただけの自分を負けにしたレフェリーに抗議するという、実に後味の悪い試合となった。

 


プロレス不穏試合 鈴木みのる 対 アポロ菅原


「船木さんは佐野さんなのに俺なんてアポロだよ」という発言が物語るとおり、当時の鈴木選手は藤原選手はおろか、天龍選手の言うことも聞かないくらい生意気だったとのことです。さらにはUWFスタイルも曲げようとしないため、そんな鈴木選手の相手を買って出る選手は、SWSには皆無でありました。それゆえマッチメーカーのカブキ選手が独断でこのカードを決めてしまったとのことです。 

(アマレスの実績やこのカードそのもの影響で、一部でアポロ菅原選手を“シューター”とする向きがあるが、多くの証言からそれは全くの幻想だということが解る) 


試合そのものは「佐山対前田」のような、典型的な「疑心暗鬼試合」でありまして、それゆえ「決定的に危ないシーン」というものは見受けられないのです。一説には「アポロが指折りをした」という話もあるのですが、ビデオを視る限り、それはそう証言した鈴木選手の誤解だと思います(追記あり)。

最後はアポロ選手が「鈴木の打撃は見逃すのに、俺がナックルの構えをしたら一瞬で反則を取った。そんな不公平な試合には付き合いきれない。そもそもSWSルールなのにリングを降りただけで負けにするなんておかしいじゃないか」という理屈をもって試合を終わらせました。

しかしその後、アポロ選手だけに罰金を科せられたことを考えますと、そもそもこの試合は鈴木選手が勝つ予定で、いわゆる「ブック破り」をしたのはアポロ選手の方ではないかと推察されるのです。

そんなわけで藤原組参入による不穏な空気から大荒れになったSWS神戸大会でありましたが、実は生意気盛りの鈴木選手本人がその空気に呑まれて「ビビッていた」そうなのです。

それゆえ鈴木選手もアポロ選手同様、中途半端な試合対応になってしまい、そのことを試合後カールゴッチ氏や藤原選手から叱責されたそうです。そんなわけで疑心暗鬼の中途半端試合。それゆえ本人達の証言も噛み合うことなく、様々な人が様々な解釈をいまだに論じている試合であります。

※新情報(2020.9.27)

菅原選手の新証言「試合前にSWS田中社長から期待してますと言われ、自分が弱いと思われる試合は出来ないと思った」「指折りに行ったのは事実だがルールの範疇」「急所蹴りなんて狙っていない。鈴木の打撃もガンガンきてくれて全然OKだった」


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 藤原喜明、星野勘太郎VSヘラクレスローンホーク、寺西勇


一杯食わせ者の末路

 1983年の【藤原喜明、星野勘太郎VSヘラクレスローンホーク、寺西勇】。新日本プロレスクーデター事件直後に行われたブラディファイトシリーズの不穏試合。

新体制シリーズの目玉になるはずだったヘラクレス・ローンホーク選手。しかしこれがとんだ一杯食わせ者。筋骨隆々の見た目とは裏腹に、攻めも受けも何もかもが未熟で、しかも「頭が本当にからっぽ」(ミスター高橋談)なので、前座試合に組み込むことすら困難という有様。最後はあからさまな制裁マッチで星野に殴り倒され試合放棄。ペイデーを待たずに途中帰国した。

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時は例の1983年です。クーデターにより猪木選手と坂口選手と新間寿営業本部長を失脚させて、マッチメイクの権限を掌握した選手会&新役員軍団でしたが、猪木選手の新マッチメイカーへの協力拒否とヘラクレスローンホーク選手の大コケにより、新体制シリーズはガタガタになってしまいました。選手会はあろうことか追放したはずの坂口選手に泣きつき、マッチメイカーに戻ってもらうことになりました。

そんな坂口選手が最初に手掛けたのが駄目ガイジンへの制裁でした。

試合でシューターの藤原選手に蹴りまくられ、さらには星野選手のナックルパンチで顔面に青タンを作ったローンホーク選手は、そのまま控え室に逃げ込み試合放棄しました。

 

控え室で「警察に訴えてやる!」と泣き叫んでいるローンホーク選手に対して、その場にいたディックマードック選手が「日本の警察だから行ってもムダだ。行くならアメリカ大使館にしろよ」とからかったのですが、ローンホーク選手はその言葉通り、本当にアメリカ大使館に逃げ込んでしまったのです (当然門前払い) 。しかも「試合放棄はプロレスの掟破りだから追放」という無茶な理屈で、新日本からギャラが満額払われることは無かったという・・・まあ、あの頃の新日本と言うか、なかなか酷い話ですよね。


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 高田延彦、山崎一夫VS小林邦明、保永昇男


確信犯山崎の最後っ屁

 1988年の【高田延彦、山崎一夫 対 小林邦明、保永昇男】。この試合を最後に新日本を離脱することに決めていた山崎が、それまでの経緯への不満から「最後は好きなようにやってやろう」と確信犯的に小林に喧嘩を吹っ掛けた不穏試合。


試合開始直後、手四つからの前蹴りを投げ飛ばされた山崎は、あからさまにふてくされた態度をとり、「ロープに押し込まれてからの張り手へのセル」を拒否する。むきになって張り手をする小林に山崎はスイッチオン。ノーガードの相手にハイキック→マウントパンチ。ただならぬ雰囲気にタッグパートナーのみならず、レフェリーやセコンドも総出で二人を分ける。

 

興奮する山崎を高田が何とかなだめようとするも、相手の小林は納得せず、その後も試合不成立スレスレの両者の攻防が続く(その都度高田が割って入る)。
試合は高田が保永を抑えて終了するも、山崎はその後もふてぶてしい態度で小林を挑発し続け、「前田が泣いてるぞ!」という、どこかで聞いたことがあるような客席のヤジが飛ぶ中、両者は控室に戻っていった。

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試合の映像を視ますと山崎選手の幼稚さ が目に余ります (それに対して高田選手の大人ぶりにはとても感心する)  。一方の小林選手はそんな山崎選手に対して、正に一歩も引かない態度だったため「不穏試合を仕掛けられた人間」側としては、珍しく株が上がった印象がします。

 

この試合について評論家の菊池孝氏は「何の非もない好漢・小林に対して新生UWFへの移籍を決意した上で最後っ屁をかました山崎は人間として最低!」と山崎選手を断罪しています。

 

そして山崎選手自身も「当時は自暴自棄になっていて八つ当たりだった。小林さんはとんだとばっちりで本当に申し訳のないことをした」と著書の中で謝罪しています。


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 芳の里淳三VS市川登


「潰せ!」とシュート命令

1954年の【芳の里淳三 対 市川登】は「力道山VS木村」の前座で発生したもう一つの不穏試合である。芳の里が不意打ちで張り手を数十発乱打し、ワンサイドで市川を昏倒させた。市川は打撃によるダメージで脳に障害が残りプロレス界を引退し、その後、1967年に静養先の故郷の沼津で永眠した。

 

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恐ろしい事に試合前、芳の里選手は力道山選手から「市川を潰せ!」と命令されていたとのことです。柔道家でもあった市川選手ですが、圧倒的な体格差に加え、相撲とボクシングの心得がある芳の里選手から、掟破りの不意打ちを食らってしまっては、ひとたまりもありませんでした。

市川選手はプロ柔道が母体である全日本プロレス協会所属の選手であり、その彼と相撲出身の芳の里選手が対決するというのは、仮想「力道山VS木村」とも言えるものでもあったのです。

力道山選手の芳の里選手へのシュート指令については「力道山選手からの木村選手への宣戦布告」とする向きがありますが、個人的にはそれとは逆で「力道山からの木村選手への警告」という感じがします。

要は「今日はやってやるぞ!」ではなく「変な事をするなよ」ということです。そして木村選手はこの時点でもっと試合に対して敏感になるべきだったとも思っています。

 

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馬場、ドリー、田上 VS 鶴田、三沢、秋山 


今さらギャラアップ?勘違いへの制裁

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1996年のジャイアントシリーズで「全日本プロレス創立24周年記念試合」として行われた【馬場、ドリー、田上 対 鶴田、三沢、秋山】。

 

最初の絡みで、秋山と三沢が連続してドリーに強烈なエルボーを叩き込み、ダメージを受けたドリーはたまらず場外にエスケープしたという試合。

記念試合らしからぬ「老人いじめ」のような秋山と三沢の攻撃が長年謎とされてきたが、G+のファンクス特集において「ドリーのギャラアップ要求に対する制裁だった」という真実が明かされた。

 


ジャイアント馬場/ドリーファンクJr/田上明vsジャンボ鶴田/三沢光晴/秋山準96'G.Baba/Dory Jr/A.Taue vs J.Tsuruta/M.Misawa/J.Ak

 

90年代半ばのドリー選手は衰えが激しく、馬場夫妻としては一線級(当時は四天王プロレス全盛期)ではなく「功労者」として、なかば義理で来日させていたのですが、そんな中でのドリー選手のギャラアップ要求は「勘違い」としか言いようがなかったでしょう。それゆえ「じゃあ一線級の攻撃を入れてやれ!」という制裁指令につながっていったと推測できるのです。当然、長年続いていたドリー選手の来日もこの時をもって途絶えることとなりました。


※新情報(2020.9.3)

ドリー選手の後妻はビクター・キニョネス氏曰く「かなりイカれた女性」だったそうで、全日のこのシリーズに大量のドリーTシャツを持ち込み、それを「売店の隣で販売させてくれ」と元子さんに要求し激怒されていたとのことです。 


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北斗晶VSイーグル沢井 


LLPWの全女潰し

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 1994年の【北斗晶対イーグル沢井】。女子プロレスの対抗戦の総決算であった同年の東京ドーム大会『憧夢超女対戦』。その目玉企画であった『V★TOPWOMANトーナメント』の一回戦で行われた。

常識的に考えて北斗の勝ちは動かないと思われた試合だったが、体格差に勝るイーグルが、試合開始直後にランニングパワーボムから全体重をかけたエビ固めを極め、シュートにフォールを取りに行った。北斗はかろうじてそれをキックアウトするも、その後もイーグルが体格の差を見せつけるような展開が続き(イーグルは北斗の必殺技であるノーザンライドボムも一度キックアウトした)、ドームがどよめく中、最終的には北斗が勝利した。

 

www.nicovideo.jp


この頃の全女とLLPWは、フロントレベルでのトラブル(松永兄弟VS風間、神取)や、LLPW駒沢大会時のファイティングマナー問題(アンダーカードにおいて多くの全女選手がLLPW若手選手の技を受けず秒殺した)など、ぎくしゃくした遺恨を抱えておりました。

それに加え、このドーム大会当日のバックステージにおいて神取と北斗が偶然鉢合わせしてしまいます。そこでこれまでの北斗選手の言動(行動)をとがめた神取選手が北斗選手を殴打し謝罪させるという事件が勃発してしまいます。

それにより両団体の信頼関係が完全に喪失し、風間選手と神取選手から、北斗選手と対戦するイーグル選手に対し「ブック通りの動きの中で完全にスリーカウントを奪う」というシュート(事前に練習済み)にゴーサインが出されました。

しかし実際にはイーグル選手が非情になり切れず北斗を逃してしまったため(優しい性格だったことに加え、女子プロドーム興行を壊す行動にためらいがあった)、指令を出した神取選手は不満をあらわにしていたとの事です。

この興行を最後に、女子プロの対抗戦ブーム&特需は沈静化していく事になりました。


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ジャイアント・グスタブVS後藤達俊、橋本真也
ジャイアント・グスタブVS星野勘太郎、後藤達俊


坂口指令のダメ外人制裁ふたたび

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1985年の【ジャイアント・グスタブ事件】について。「超怪物」という触れ込みで初来日したジャイアント・グスタブは、新日本の巡業バスを引っ張るパフォーマンスを見せるなど、猪木戦に向けて猛アピール。実際にリング上でも対戦要求を行ったが、結局試合は実現しなかった。その後、シーズン終盤に組まれた「後藤橋本組」「後藤星野組」とのハンディキャップマッチにおいて、フッカーである3人に連日ボコボコにされ(両試合ともグスタブの反則勝ち)、最終戦を待たず途中帰国した。



あのジャイアント・グスタブが新日本マット襲撃予告! Giant Gustav

 

このグスタブ選手については「典型的なとんだいっぱい食わせ物」だという話がされていますが・・・そもそも新日本は「カーニバルレスラー」だった彼に過剰な期待をしていたわけではなく、シリーズの目玉カードであった【猪木対ブロディ】の単なる盛り上げ要員・・・つまりは「猪木のやられ役」的役割で呼んでいたのでありました。

そんなわけで、もし猪木戦が実現していたとしても、これはモチーフとなったグレートアントニオ選手同様に、グスタブ選手が猪木選手にボコボコにKOされてお役御免という事になったはずなのです。しかしながら、そのグスタブ選手が猪木戦をリング上で要求したその日に、あろうことかマネージャー役のブッチャー・バション氏が試合の実現を拒否してしまったのです。

これがギャラの吊り上げなのか、それとも商品価値の保持なのかは、今となっては解りませんが・・・それに激怒したのがブッカーの坂口選手でした。もともとグスタブ選手の態度の悪さ(実際頭も弱かった)に辟易としていた坂口選手は制裁を決め、後藤選手と橋本選手と星野選手という腕自慢(フッカー)をグスタブ選手の相手にマッチメークしました。

「一発蹴るたびに5000円をやるから潰してこい」

と、ハードヒットを命じられた後藤選手と橋本選手は、嬉々としてグスタブ選手を蹴りまくったのです(後藤選手曰く「やりすぎだ」と坂口選手はお金をくれなかったそうな)。さらに後日の試合でパンチの強い星野選手にもボコられたグスタブ選手は、最終戦になる前に逃げ帰ってしまったという話なのですね。

まあ、あのヘラクレスローンホーク選手を彷彿させるような笑えるエピソードなのですが・・・実は僕はこれらの事件が、一部の選手の坂口選手に対する疑心暗鬼を招き、最終的には、あの「前田日明による長州顔面蹴撃事件」に繋がっていると僕は思うのです。

 

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ウィリアム・ルスカVSイワン・ゴメス


地球の真裏の不穏試合

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1976年の【ウィリアム・ルスカ対イワン・ゴメス】は、新日本プロレス二度目のブラジル遠征で行われた試合。ゴメスは試合前からルスカに「柔道着を脱げ」と要求するなどナーバスな様子であった。試合開始後にはフットワークを生かした掌底攻撃でゴメスが優位に立つも、続くゴメスの膝蹴りを食らったルスカが遂にスイッチオン。オープンハンドの打撃でゴメスをぐらつかせると、顔面に強烈な右ストレート一閃。それをまともに食らい大流血に追い込まれたゴメスは、胴タックルでルスカをグラウンドに引きずり込み、エプロンサイドでチョークスリーパーの態勢に入るも、異変を察知したレフリーのミスター高橋が『ゴメスのエプロンカウントアウト負け』を宣告した。

 顔面を血に染めつつ納得のいかないゴメスと(当時のバリツードはベアナックルパンチ禁止)、地元の英雄の不可解な負けに暴動寸前の観客を(バリツードはロープブレイク無し)、試合後にリングインした猪木がなんとかなだめ(ブラジル育ちの猪木は現地で超ベビーフェイスだった)その場を収めた。

 翌日、ルスカとレフェリーであるミスター高橋に。『サンパウロとブラジリアにおける興行出場資格停止』処分が下され、騒動には一応の決着がついた。

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当時のブラジルでは「バリツード(なんでもありに近い闘い)」と「ルタリーブリ(西洋式のプロレス)」が分かれて認識されておりました。

新日本の二度目のサンパウロ遠征は、当然、通常のプロレススタイル(この場合ルタリーブリ)だったわけですが、当日のチケットを見ると「ゴメスVSルスカ」のみ「バリツード」とアナウンスされているんですね。ブラジル体育協会主催試合です。ですのでゴメスサイドは最初から『柔道五輪王者』であるルスカ選手と、バリツードで闘おうともくろんでいたと推測されます。

一方のルスカ選手といいますと、この年の2月に猪木選手と異種格闘技戦で熱闘の末に敗れ、「猪木と再戦をするために新日本について回っている」というキャラ付けをされ、このブラジル遠征も「猪木戦を実現するためにブラジルまで猪木を追ってきた」という設定になっておりました。だからまさかこの場で真剣勝負を行うつもりはなかったでしょうし、ブラジルの英雄に(負けを飲むまでは行かないが)少しは花を持たせるぐらいのつもりもあったでしょう。

しかしながらゴメス選手は「柔道家のルスカは打撃を知らないだろうから、スタンドで仕掛ければシュートでも勝てる」と考えていたふしがあり、最初からバリツードを仕掛けてきました。これには地元の英雄として引けない部分もあったのでしょうね。しかしルスカ選手は甘くなく、結果このような試合になったのだろうと推測されます。

 

「(ゴメスの打撃は)いわゆる他流試合ではなくストリートファイトのニュアンスのものだった。はるばるブラジルまでやってきて喧嘩ファイトで余分なダメージを受けたら割に合わない。やられたらやり返せは勝負の世界の鉄則だ」ルスカ

 

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ルー・テーズVS大木金太郎


二代目力道山襲名はガチだったのか?

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1964年にテキサス州ヒューストンで行われたNWA世界ヘビー級タイトルマッチ【ルー・テーズ対大木金太郎(キムイル)】。

頭突きでシュートに攻め立てる大木に対し、テーズは鉄拳制裁で応戦。戦意喪失した大木にテーズはバックドロップ一閃。そのままフォールに行かず引きずり起こしたところでレフェリーが試合を止めた。大流血の大木は担架で運ばれ入院。顔面を24針縫う重傷を負った。

 

この試合の前年の1963年に力道山選手が暴漢に襲われ不慮の死を遂げました。それにより大きな後ろ盾をなくした大木選手は韓国に帰国します。彼は母国で韓国プロレスを立ち上げ大成功をおさめ、その勢いで翌1964年にアメリカ遠征に出発しました。そこでスーパースターであるテーズ選手との世界タイトル戦に挑んだわけです。

1964年と言えば、大木選手のライバルでもあるジャイアント馬場選手もアメリカ遠征を行っており、大木選手に先んじて世界三大タイトルに連続挑戦を果たしておりました。そのことは海を越えて大評判になっておりましたから、大木選手としても負けられない思いがあったのです。そのうえ彼は当時日本プロレスの社長だった豊登選手から「もし世界王者になったら二代目力道山を襲名させてやる」と伝えられていました。そういう背景により、この試合は豊登選手の軽口を真に受けた大木選手がセメントマッチに走ってしまい、怒ったテーズ選手に鉄拳制裁されたと、これまで言われてきたのです。

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しかしながら…どうにも僕が気になるのは『この試合の写真が大量に現存している』ことなのです。同じ年に全米で行われた馬場選手の3つの世界戦の写真は殆どないのに、なぜかこの試合の写真は非常にクリアに写されたものがたくさん残っているのです(おそらくネガが現存していたのでしょう)。

そしてそれらの写真が『出版用画像販売サイト』の『シュートマッチ』の項目に30枚近く公開されていというミステリーぶりなのです。ほかにその項目にあるのは「1.4事変」と「前田対アンドレ」の2試合なのですが、それらの「超有名不穏試合」はたった数枚の写真なのですね。ですのでバランス的にも明らかにおかしいのです。

 

そしてここから推察されるのは、ずばり「この試合で何かがあることを確信していたので、東スポのカメラマンがわざわざ大木選手に同行した」のではないかということなのです。

当時、東スポのオーナーだった児玉誉士夫氏(戦後最大のフィクサー&日本プロレス会長)と、町井久之氏(在日韓国人のトップ)は、大木選手の「二代目力道山襲名」にかなり積極的でした。要は大木選手の事を「日韓をまたにかけたスーパースター」に仕立て上げようとしたのです。そしてそこにはプロレスを政治利用しようとした韓国の朴政権の要望もあったとされています。

そしてそれに対して反対の立場だったのが、力道山選手の亡き後に日本プロレスの社長に就いた豊登選手でした。「力道山」の名称を韓国に渡すとなると、その裏にある力道山選手の出自というタブーに触れざるを得なくなります。日プロとしてはそれは絶対に避けたいところでした。

ですので彼が言ったとされる「もし世界王者になったら二代目力道山を襲名させてやる」という言葉というのは、これは決して軽口ではなく、豊登選手が現役のプロレスラーとして発した『絶対に無理な条件』だったのだと考えられるのです。

世界王者テーズ選手は政権最末期でありました。48歳の老世界チャンピオンに対して、セメントに定評がある大木選手は意を決して危険な攻撃を仕掛けていきましたが・・・

「大木は最初からまともな試合をするつもりはない様子だった。それは私に恐怖感を与えた」(ルー・テーズ自伝「fooker」より)


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長州力、マサ斎藤、ヒロ斎藤 VS 前田日明、木戸修、高田延彦


長州顔面襲撃事件

1987年の【長州力、マサ斎藤、ヒロ斎藤 対 前田日明、木戸修、高田延彦】。別名【長州顔面襲撃事件】とも呼ばれる有名不穏試合。

試合会前から長州に対して敵意を剥き出しにしていた前田が、実際の試合においてもグレーゾーンの行動をし続けた挙句、カットプレー時の危険な蹴りで長州を負傷(眼窩底骨折)させた。一時試合は大混乱に陥ったが、その後、勝敗そのものは空気を読んだ高田がリキラリアットからあっさり長州にピンフォールを奪われ、長州組の勝利に終わった。

前田選手自身は

「天龍さんの輪島さんに対する厳しい攻めを視て危機感を覚え、ハードな攻めをしてみたのだが、受け入れてもらえなかった」

「最後のあの蹴りも、こっちはちゃんと肩を叩いて合図をしているのに、長州さんの方が変に逃げるから当たりどころが悪くなってしまった」

などと、この試合に関する自らの故意を否定しています。

しかしながら、僕はこれらは前田選手の下手な言い訳に過ぎないと感じます(さらに言えば、今や前田自身が、すっかりとその嘘の言い訳を信じ込んでしまっているように見受けられるのです)。長州軍団の新日復帰に対する前田選手の反応&この試合までの経緯&当日の試合映像・・・これらから考えても、前田選手の「天龍プロレスに負けないように少し固く行っただけ」という主張は到底事実とは考えらません。さらには本人の

「これまで前田は生意気だから潰してしまえと、やれアンドレだ、やれ長州だと散々けしかけられてきた。でも俺はそういう火の粉を全部自分で払ってきた」

という後年の発言から考えても、この試合の結論は「長州選手の新日復帰に対し、疑心暗鬼に駆られた前田選手の一人相撲」という見解で間違いないと思います。

前田選手は新日本を解雇されますが、それにより第二次UWFが旗揚げされ、その後の一大ムーブメントが起きる事となりまりました。結果的にこの試合は「プロレスの世界はやったもの勝ち」という悪しき典型例の一つとも言えるでしょう。


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※今後も随時不穏試合を追加していきます!


ミル・マスカラスの素顔【仮面貴族はアランドロン? 谷村新司?】 1971~



前田明凱旋ベルト【欧州ヘビー級ベルト サイドバックルの謎】 1983


ホイス・グレイシー【グレイシー柔術の衝撃】1993‐1995


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