ストロング・マシーン軍団「金太郎飴集団の素顔」1984-1985 スキップしてメイン コンテンツに移動

ストロング・マシーン軍団「金太郎飴集団の素顔」1984-1985

新日本プロレスが所属選手の大量離脱に見舞われた1984~1985年の事を、プロレス界では「冬の時代」と呼んでおりますが、そんな時代に突如登場したのが、謎の怪覆面集団「ストロング・マシーン軍団」でありました。今日はそんな彼等の噺です。



キン肉マン登場?

1984年8月24日、新日本プロレスの後楽園ホール大会に「目出し帽&アメフトのプロテクター姿」の謎の男が登場し、若手レスラーをタックルで次々と吹き飛ばしました。そしてマネージャー役の若松市政(ショーグンKYワカマツ)と共に、TV放送の解説席にいた猪木選手に挑戦を表明したのです。

当時、新日本プロレスには人気マンガの「キン肉マン」が登場するのではと噂が流れておりました。

その噂を裏付けるようにワカマツマネージャーは『キン肉マン消しゴム(キン消し)』を客席に投げ入れており、さらには、その男の目出し帽から覗き見えるマスクのデザインは、まさに「キン肉マン」そのものだったことから、『噂のキン肉マンが遂に新日本に登場か?』と場内は大騒ぎになりました。

不満の声

しかし、それは必ずしも好意的に迎えられたものではありませんでした。そのワカマツマネージャーを伴ってのヒール的登場もさることながら、この「キン肉マン」というギャグマンガのキャラクターが、当時の新日本プロレスファンのストロングスタイル信仰というものに、全く合致しなかったのです。

それゆえ各プロレス誌なども、この新日本プロレスの動向を

『同じマンガから生まれたマスクマンでも、シリアスなタイガーマスクとギャグマンガのキン肉マンでは全く性質が異なる。そういうキャラクターをリングに登場させるのは如何なものか?』

と、かなり否定的に報じていました。

正体は平田淳二

しかもこの時、この「目出し帽男」の正体は、海外武者修行中とされていた「平田淳二」選手だとバレバレだったのです。

   何故かこれは平田「淳三」になっている

当時の平田選手は未来の新日本のエース候補でした。新日道場で同期の前田日明選手らと切磋琢磨してきた地力には定評があり、さらにはボディビルで鍛えられた肉体や、そのいかにもベビーフェイス然したマスクの良さなども、若手時代から大いに人気を呼んでいたのです。ですので、彼の凱旋を期待していた人たちからは「何も平田がキン肉マンなんてやらなくたっていいじゃないか?」という声が上がって然りの状況だったのです。

権利関係でキン肉マンは幻に

しかしその心配はまさに杞憂でした。なんとアバウトなことに、新日本プロレスは「キン肉マン」の権利関係を全くクリアしていなかったのです。

著作権保有者の了解を全く取っていないという、正に見切り発車の状況…そしてそんな状況でありながら、新日本は勝手にキン肉マン仕様の試合コスチュームまで用意していたという、正に冗談のような話だったのです。

こんなルール無視のやり方では権利関係の話などまとまるわけもなく、最終的に(当然のことながら)キン肉マンのキャラクターの使用許可は下りませんでした。
つまりこの後楽園ホールの乱入劇の時点で、すでに「キン肉マン」の企画自体がボツになっていたのですね。

そんなわけで、言わば苦し紛れ的に「キン肉マンのプロトタイプのマスクの上から目出し帽をかぶった謎の怪覆面。名前はまだない」という、訳の分からないマスクマンが後楽園ホールに登場したのでした。いやはや、なんとも豪快なテキトーさですね。

考えてみれば新日本プロレスはTV朝日で、キン肉マンは日本TVの人気コンテンツでしたから、そもそもその時点で「キン肉マンの新日本プロレス登場」はあり得ない話だったのです。


平田選手はモヒカンヘアだった

そんなわけで平田選手は素顔で堂々と凱旋帰国…となるところなのですが、そうは簡単には行かない事情もあったのです。

当時平田選手はカナダのカルガリーマットで「サニー・ツー・リバーズ」という、インディアンキャラのレスラーでありました。そしてカナダから南部アメリカへの転戦も決まっていたのです。つまり当分の間、自分の凱旋帰国はないと考えていたのです。

そんな中で、新日本の事情で急遽帰国命令が出たため、平田選手の髪はモヒカンヘアのままでありました。ですので、いくらキン肉マンがボツになったからと言って、そのまま単純にマスクを脱ぐわけにもいかなかったのですね。

平田選手の心の変化

当時、新日本の新弟子だった船木誠勝選手の証言によりますと、平田選手は後楽園ホール乱入事件の前夜、新日道場で深酒し「俺はキン肉マンになんてなりたくないよ」と泣きながら訴えていたそうです。なんだか深く同情してしまうエピソードですね。

しかしそれほどまでに嫌がっていたマスクマンへの転身でしたが、実際にマスクを被ると平田選手の中に不思議な感覚が湧き上がってきました。

「全く違う人格になれる」

要は本人がマスクマンの可能性に対して、あっという間に、その気になってしまったのです。平田選手は本人の希望の元、正式にマスクマンに転向する事となりました。

ストロング・マシーン誕生

翌週、再び「目出し帽男」が、ワカマツマネージャーと共にリングに現れます。前週とデジャブな光景ですが、しかしながら違ったのは『目出し帽から覗き見えるマスクのデザイン』でした。そう、それは明らかに先週の「キン肉マン」とは異なるデザインだったのです。


その新しいマスクをデザインしたのは、なんと平田選手本人でした。彼は楳図かずお氏の「笑い仮面」をパクってヒントに、全く新しい形のプロレスマスクを作り上げたのでした。

そして決まっていなかったリングネームの方も、ワカマツマネージャーが記者団とのやり取りでアドリブで答えた「ストロングなマシン=ストロング・マシーン」に決定しました(とことんテキトーですね)。

そして9月7日。福岡のビックマッチにおいて『アントニオ猪木vsストロング・マシーン』のシングル戦がいきなり実現することになったのです。


ハチャメチャなデビュー戦

さていよいよ猪木選手とのデビュー戦です。これがまた悪い意味での伝説の試合となってしまいました。

ニセ馬場登場

試合前に「ジャイアント馬場のそっくりさん」である韓国人のパク・スンモ氏が登場しました。会場は「馬場?馬場??」と大いに沸きます。パク氏はリング下を一周しますと、特に何もせずにそのまま去っていきました。

(そしてパク氏はそのまま二度と新日本マットに登場することはありませんでした)。

2号登場

場内が妙なムードになったところでマシーンが入場してきました。場内に入ってきた彼等を見て会場が沸きます。なんとワカマツマネージャーはもう一人、別の覆面男を連れてきたのでした。

それはその後「ストロング・マシーン2号」と呼ばれることになる選手でした。初登場のこの日の2号は、定番のマシーンマスクではなく、このような別のマスク姿での登場だったのです。

迷走試合

試合は猪木選手がマシーンをギブアップ寸前まで追い詰めますが、ワカマツマネージャーの乱入により、猪木選手の反則勝ちという結果に終わりました。

その不透明な試合結果もさることながら、冒頭のパク氏の意味不明な登場や、さらには新たなる怪覆面の登場など、この日の興行は、あまりにもとっ散らかり過ぎておりました。そしてそれは当時の新日の迷走ぶりを、そのまま如実に表していたような気もします。


ストロング・マシーンズ誕生

2号は2度目の登場時からは、1号と同じデザインのマスクを被るようになりました。ストロング・マシーンズの誕生です。2号は190センチクラスの大柄でありながら、ノータッチのトぺスイシーダを難なくこなすなど、空中戦を得意としている選手でした。

2号=力抜山

2号の正体は、当時、新日本にプロレス留学にきていた韓国人レスラー力抜山でした。正直、当時の彼は「ド・前座レスラー」でしたので、この起用はある意味、大抜擢と言えるものでした。そしてそうであるがゆえ、意外に2号の正体に気が付く人は少なかったのです。


維新軍団からマシーン軍団へ

マシーン軍団についての誤解の一つに「マシーン軍団は維新軍団の大量離脱事件の穴埋めのために作られたユニットだ」というものがあります。

しかしながら実際にマシーンが後楽園に登場したのは1984年の9月の事であり、長州率いる維新軍団の新日本離脱の前の事なのです。さらに言えばマシーンが2人に増殖したのも同じく離脱前の事です。そしてそれどころか、マシーン軍団は維新軍団と実際に接触もしているのです

それは維新軍団離脱前の『世紀軍対長州軍』おいてです。その試合にマシーン1号と2号が乱入し、試合をぶち壊してしまったのですね。維新軍団にとっては、この試合が新日本における最後の試合となってしまいますので、正にバトンタッチと言いますか、なんだか不思議な因縁を感じますね。

僕は個人的に、この一連の「キン肉マン騒動」というものは、同時期に全日本プロレスに登場することになっていた「二代目タイガーマスク」の話題を打ち消すために、新日本プロレスが確信犯的に行ったアングルだと思っています。


「猪木対2号」そして3号登場

マシーン軍は凱旋帰国したヒロ斎藤とも手を結び、乱入や襲撃を繰り返し次第にその勢力を広げていきます。そして11月の東京体育館において、猪木選手と2号のシングルマッチが決定します。正にビックマッチです。ワカマツマネージャーはこの大会に新たに3号を連れて行くことを宣言します。そうマシン軍の暗黒増殖の始まりです。

初代3号=ダニークロファット

ストロングマシーン3号として新たなマスクマンを作ろうにも、所属選手の離脱で層が薄くなっていた新日本には、なかなかその適任者が見当たりませんでした。

そこでワカマツマネージャーは、他団体のUWFに来日していたダニークロファット選手に白羽の矢を立てます。ワカマツマネージャーとクロファット選手は、カナダのカルガリーマットで旧知の仲だったのです。

クロファット選手は了承し、初代3号としてマスク&トレーニングウェア姿で新日のシリーズに合流しました。怪我により試合出場こそ無かったものの、東京体育館の試合では2号のセコンドにつき、試合後の乱闘劇にも参加しました(初代クロファット版3号は、この日を限りに活動を終了します)

正規軍マシン=高野俊二

しかし、今回は猪木選手の方も策を講じてきました。猪木選手はセコンドに「正規軍マシーン」という大型マスクマンを伴って入場してきたのです。

正規軍マシーンの正体は、平田選手やヒロ選手同様、カナダマットでの武者修行から帰国した高野俊二選手でした。この攪乱作戦は成功し、猪木選手は2号を延髄斬りできっちりとフォールしました。そうです。ここまでやられっぱなしだったマシーン軍団に対して、初めてリング上での決着に成功したのです。

そんなわけで、この試合は会場の満足度もなかなかのものだったのですが、その一方で、この興行にはっきりと苦言を呈したのは、ゴング誌の古参のプロレス評論家たちでした。

「私は正体に気が付いているからあえて言うが、このストロングマシーン2号は猪木選手がこれまでビッグマッチで戦ってきた相手の中で最も弱い選手だと思う。今は長州たちが抜けて厳しいのはよくわかるのだが、もう少し考えてマッチメイクしてもらいたい」


MSGタッグリーグ戦に出場

1984年の新日本の年末シリーズ「MSGタッグリーグ」に大激震が起こりました。それはリーグ戦に参加予定だったダイナマイト・キッド選手とデイビーボーイ・スミス選手が、土壇場で出場を一方的にキャンセルし、ライバル団体の全日本プロレスの「世界最強タッグリーグ戦」に出場する事を宣言したのです。

寝耳に水だった新日本は全日本に抗議しますが、仕掛け人のミスターヒト氏(金銭面で新日本に恨みを持っていた)と共に来日したキッド&スミス組は、全日本に強行参戦を果たし、新日本のMSGタッグに穴を開けてしまいました。

マシーン軍の評価が上昇

この時、ドタキャンしたキッド&スミス組の代役として指名されたのがマシーン軍団でした。彼等はアンドレ・ザ・ジャイアント選手を挑発するなど、タッグリーグ参加のテーマを自ら見出していきます。そしてこのシリーズの台風の目となっていったのでした。

特に猪木&藤波組との公式戦は、藤波選手のドラゴンスープレックスホールドが5年ぶりに炸裂するなど「マシン軍絡みのベストバウト」と呼ばれるほどの好勝負となりました。

さらにシリーズ最終戦(1984年国内最終戦)では「猪木&アンドレvsマシーン1号、2号」という特別試合も組まれ、アンドレ選手との遺恨決着戦で大いに会場をもりあげました。

ハワイ遠征

MSGタッグリーグ戦終了後、新日本はハワイ遠征に向かいます。当時のハワイはプロレスが盛んで、新日本と交流の深いロッキー・メイビア一族(現俳優のザ・ロックことドウェイン・ジョンソンもその1人で、当時子供だった彼も、新日軍団と共にリングに上がり挨拶していた)が興行を仕切っていました。

その関係で1984〜1985年の新日本はハワイとの繋がりがとても深かったのですが、実はそれがマシーン軍団にも大きな影響を与えることになっていきます。

4人に増殖

年は明けて1985年の元旦決戦において、マシーン軍団に新3号と4号が加わりました。年末のハワイ遠征時に、現地で観光ガイドの仕事をしていた元プロレスラーのヤス・フジイ氏に声を掛け、マシーン軍団の新3号として現役復帰させたのです。さらにはそのハワイルートからマシ―ン軍の構成員(ラトウ・アティサノエ選手、スーパーフライ・チュイ選手)をスカウトし、4号としてリングに立たせました。

新3号=ヤス・フジイ

新3号の正体は元国際プロレスのヤス・フジイ選手でした。ハワイ在住の元日本人プロレスラーで、試合においてはマシーン軍団の統率も取っていた「影のボス」であった人物です。


4号=ラトウ・アティサノエ

マシーン4号の正体はラトウ・アティサノエです。名前からお分かりのように、元大関小錦さんのファミリーであり、小錦さんの10人兄弟の一番上の兄でした。経験が浅いので試合出場の機会はとても少なく、悪く言えば数合わせ要員でした。

   補欠4号=スーパーフライチュイ


黒一色に統一し「ストロング・マシーンズ」に

4人に増殖したマシーン軍団は、黒マスク&ワンショルダーの黒タイツにコスチューム統一し、その匿名性を高めました。そしてタッグマッチにおける入れ替わりなどのトリックプレーをはじめとした、特色を生かしたチームファイトにスタイルチェンジしたのです。


正直、平田選手(1号)以外は大したレスラーはいなく、正に寄せ集めもいいところの軍団だったのですが、このように没個性にしたことで各人のアラが目立たなくなりました。
さらには実況の古館アナウンサーの「地獄のお茶の水博士」「戦う金太郎飴軍団」「悪の正太郎くん」といったフレーズも、彼等にピッタリとはまっていましたので、この時期のマシーン軍団&ワカマツマネージャーは、急速に一般的な知名度を上げていきました。

「管理社会における現代人のフラストレーション、ジレンマが、この怪物たちを次々と作り出してしまったのではないでしょうか!?」(古舘伊知郎)

人気をよそに…1号は?

カルト的な人気が急上昇したマシーン軍団は、調子に乗ってレコードまで発売しました。さらにはグラビアでスタジオ撮影が組まれたり、「マシーン軍団の見分け方」というコミカルな記事が専門誌に載ったりと、リング界隈ではちょっとしたマシーンブームが起こっていたのです。
新日本にしても、まさかこのメンバーが離脱した維新軍の穴を埋めてくれるとは思っていなかったでしょうから、マシーン軍団は冬の時代の救世主的役割を果たしてくれていたのです。

しかしその反面、マシン1号である平田選手に関して「実力者の平田がマシンの一員に甘んじているのは宝の持ち腐れではないのか?」という意見が、業界内で根強く流れておりました。それに対して1号は沈黙を守り、日々、黙々と軍団員のルーティンをこなしていたのです。

ブロディ新日登場による立場の変化


1985年3月、全日本プロレスからブルーザーブロディ選手が新日本プロレスに移籍し、猪木選手に挑戦表明をしました。超大物の大型移籍です。その日から猪木選手はブロディ選手との戦いに集中し、マシーン軍団の相手をしている暇などなくなってしまったのです。

藤波がターゲットに

猪木選手に袖にされたマシーン軍団は、ターゲットをハワイ遠征時に因縁が出来た藤波選手に変更しました。そしてそのことでモチベーションが上がったのは1号でした。マシーン1号は藤波選手が保持するWWFインターナショナルヘビー級選手権への挑戦を表明します。そして両国国技館大会のセミファイナル(メインは「猪木vsブロディ」初対決)において、ノンタイトル戦でありながら「藤波vsマシン1号」が行われることになりました。

ワカマツの介入で仲間割れ

藤波戦に際してマシーン1号は玉虫色のニューマスクを被り、マシーンズの騎馬に乗って登場してきました。新たなマスクは「入れ替わり作戦など使わず正々堂々と戦う」というマシーン1号の決意の表れでもあったのです。
試合は一進一退の熱戦となりましたが、勝負どころでワカマツマネージャーのパウダー攻撃がマシーン1号に誤爆し、藤波選手がドラゴンスープレックスで勝利しました。マシーン1号はデビュー以来初のフォール負けを喫し、ワカマツマネージャーとは喧嘩別れになってしまいました。

そして一人残ったマシーン1号は、満員の観客から嵐のような「平田コール」を浴びます。

スーパー・ストロング・マシーンに改名

マシーン1号はスーパー・ストロング・マシーン(以下、SSマシーン)に改名し、ワカマツ軍と袂を分かちます。そしてここから「シングルプレイヤーとしてのSSマシーン」をめぐり、様々な思惑が交差していくのです。



「お前は平田だろ!」事件と素顔問題

SSマシーンはシングルプレイヤーとして第3回IWGPに参戦します。そこではいきなり元世界チャンピオンのボブ・バックランド選手との特別試合が組まれ、そこでの戦いぶりが大いに期待されましたが…ストーカーのように繰り返されていたワカマツ軍の介入により、せっかくの試合をぶち壊されてしまいました。


しびれを切らしたSSマシーンは「藤波vsラリーシャープ」にも介入してきたワカマツを叩きのめしてしまいます。図らずともライバルである藤波選手を救出した形になってしまったSSマシーンに対して、ここで藤波選手がのちに伝説といわれる衝撃的なマイクアピールをしたのでした。

「お前は平田だろ!」事件


マイクを握った藤波選手はSSマシーン選手に対し、

「平田だろ!お前!」
「俺と試合したいなら正々堂々とマスクを脱いでみろ!」

とまさに禁断のマイクアピールをしたのです。トップレスラーがマスクマンの正体を言葉にしてしまうという異常事態に場内は騒然となり、期せずして「平田コール」湧き起こりました。対してSSマシンはタオルをかぶったままマスクを脱ぎ、それを藤波に投げつけて去っていきました。


さらに後楽園ホール大会においては、藤波選手に続き、今度は猪木選手が「おい、平田!」と呼びかけます。またしても巻き起こる「平田コール」の中、SSマシーンはマスクを脱ぎますが、中にもう一枚マスクを被っていたのでした。

SSマシーンを平田に戻そうとする動き


その後、「マシーンvsペドロ・モラレス」の試合後、乱入してきたワカマツに対し、SSマシーンが初のマイクアピールをします。だみ声で何を言っているのかわかりませんでしたが、確かに日本語をしゃべっており、これは平田に戻る伏線なのではと考えられました。

さらには「マシーンvsアンドレ」の試合中には、ワカマツの介入でピンチに陥ったマシーンのことを、猪木が一人で救出しに来たのです。これもマシーンの正規軍入りを誘う行動だと当時は受け止められていました。

この頃になると専門誌もすっかり「SSマシン=平田」「SSマシンは素顔になって正規軍入りするべき」という論調になってきました。そして大胆にも平田選手の素顔時代の写真も掲載し、その流れを煽っていったのです。


さらには一冊丸ごとSSマシンを特集した『プロレスアルバム59 スーパーストロングマシーン』も発刊されます。


そこでは前田日明選手とのライバル関係など、
若手時代からの平田選手のプロレス遍歴が振り返られており、それなどからも、プロレスファンの間ではSSマシンが素顔になるのは時間の問題と受け入れられておりましたしかし本人はマスクへのこだわりが強く、その流れに対する不満を隠そうとはしませんでした。

マシーン軍残党との争い

新シリーズ(バーニングスピリット・イン・サマー)においての、藤波選手とのタイトルマッチをぶち上げたSSマシン選手でしたが、当の藤波選手からは「ワカマツ軍団のマシーン残党と決着を付ける」という条件を出されます。SSマシンはその条件を飲み、2号、3号とのシングルマッチの連戦に挑むことになります。

その戦いに際しては、それまで一切公式なコメントを出して来なかったマシーン3号が、公で初めて口を開き

「仲間を裏切って、言いたい放題に好き勝手やっているSSマシーンは絶対に許しておけない。それに俺はこうやって文句を言えるが、2号は文句すら言えないんだ。何故ならあいつは…」

と、かなりシュートな発言を残し、物議を醸しました。


SSマシーンは時にはマスクを剥がされたり、時にはヒロ斎藤選手や新日の若手に助けられながらも、何とか2号、3号を連覇し、藤波選手とのタイトルマッチまで足を進めました。

念願の藤波戦が実現するも…

藤波選手とSSマシーンの「WWFインターナショナルベビー級タイトルマッチ」は、シリーズ中盤の天王山である札幌中島スポーツセンターにて、ついに実現する事となりました。試合は一進一退の攻防となり、名勝負の期待に違わぬ熱闘です。そのうちに藤波選手の隠れ必殺技である三角絞めがリング中央でガッチリと決まりました。SSマシーンはもがくものの、どうにも脱出出来そうにもありません。「これは勝負あったか?」というムードが場内を支配した時、リング上にワカマツ軍団が乱入し、試合をぶち壊したのです。試合は無効試合と裁定されました。
SSマシーン選手と共に、ワカマツ軍団を蹴散らした藤波選手は「俺とタックを組んで若松軍団を倒そう」と呼びかけました。

この光景に、ある程度プロレスを知っているファンの頭の中には『最終戦の両国国技館で藤波とSSマシーンがタッグを組んでワカマツ軍団をやっつけ、その後、マスクを脱いで正規軍入りを表明するのだろうな』というストーリーが浮かびました。
しかしSSマシーン選手は藤波選手の握手を拒否して去っていってしまったのです。


SSマシーン新日離脱

藤波選手との共闘を拒否したため、最終両国国技館のカードは「SSマシーンvsマシーン3号」という、全く誰の得にもならないカードになりました。SSマシーンは2分掛からず3号を倒し、その後のゴング誌のインタビューにおいて新日本プロレスへの不満を爆発させます。 


「会社の都合でマスクマンになったのに、また会社の都合で素顔になれだなんて、余りにもふざけすぎだ」「ワカマツ軍団との抗争ばかりさせられてウンザリだ。藤波戦ももう魅力はないし、俺は自分が戦いたい人間のいるリングに上がる」

その言葉通り、新日本プロレスの両国国技館大会から僅か4日後、ジャパンプロレスの大阪城ホール大会にSSマシーンは姿を現しました。全試合終了後、リングに上がったSSマシーンは、ジャパンプロレスのエースの長州力選手と握手を交わし、新たなる戦いを宣言したのです。


こうして1985年の夏、初登場から一年も満たないうちに、SSマシーンは新日本プロレスから離れていきました。

ジャイアント・マシーン登場

SSマシーンを育て上げた上で、美味しいところを他団体にかっさらわれてしまった感のある新日本でしたが、単に手をこまねいてはおりませんでした。

新日本はあのアンドレ・ザ・ジャイアント選手にマスクをかぶらせ「ジャイアント・マシーン」としてリングに登場させたのです。その「世界最大のマスクマン」というインパクトは絶大でした。


さらにはマスクドスーパースター選手も「スーパー・マシン」に変身させ、ワカマツマネージャー率いる「ジャイアント・マシーン軍団」を結成させます。ちょうどSSマシーンが契約問題で試合ができない時期でしたので、これは嫌がらせとしてもなかなかのものでした。

マシーン軍団の終焉


「SSマシーンの新日本プロレス離脱」と「ジャイアント・マシーン軍団の誕生」というものは、それまでの「ストロング・マシーン軍団」の終焉を意味しておりました。

マシーン2号(力抜山〕

一時、韓国に戻ったのちに、また素顔の力抜山として新日本プロレスに再留学しました。そんな彼がたまに見せる「ノータッチのトペスイシーダ」は、今で言う「匂わせ技」として、場内のどよめきを誘っていました。その後は韓国に帰国し、現地のエースレスラーとして長く活躍しました。

マシーン3号(ヤス・フジイ)

元々セミリタイア状態だった彼は、両国国技館のSSマシーン戦を最後に、正式に現役引退して、ハワイでの観光ガイドの仕事に専念するようになりました。その後、米国本土に移住したとのことです。

マシーン4号(ラトウ・アティサノエ)

もともと選手としての参加は少なかったので、活動停止後はハワイに戻りました。その後はジャパンプロレス(長州新日Uターン後)にスカウトされ話題となり、さらにその後、藤原組に「ラト・キラウエア」という名で登場し藤原選手とも対戦しています。


そんなわけで『オリジナル”ストロング・マシーン軍団”』の活動は、実は一年も満たないものだったのです(1~4号体制の活動期間に至っては4か月程度)。意外な短さのわりに、これだけ印象に残っているというのは、やはりあの軍団のもたらしたインパクトの大きさは、プロレス史に残るものだったのだろうなと感じたりします。


今回の噺はここで終了です。

その後のSSマシーンや派生マシーンに関しては、また機会を改めて。





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