アイドル時代の斉藤由貴さんの第2弾です。今日は1986‐1987年という斉藤さんの人気絶頂期の活躍ぶりと、その時代におけるアイドル⇒女優業へのシフトについての噺です。
1986年の斉藤由貴
1986年は斉藤さんにとって「当りっぱなし」の年となり、押しも押されもせぬトップスターとして、芸能界の中心人物に駆け上がっていく事となりました。
ブルーリボン賞新人賞受賞
1986年2月に行われた第28回ブルーリボン賞において、斉藤さんは「雪の断章-情熱-」での演技が評価され1985年度の新人賞を受賞しました。
歌手としての斉藤さんは1985年度の賞レースを辞退しておりますから、この映画分野での受賞劇には「歌手よりも女優業が本命」という斉藤さんの路線がはっきりと示された形となりました。
シングル「悲しみよこんにちは」
斉藤さんの1986年の最初のシングル「悲しみよこんにちは」は、玉置浩二さんと再びタッグを組んだアップテンポな明るい曲となりました。この曲は2つのメディア(テレビアニメとCM)とタイアップするという、あまり例のないプロモーションがされておりました。
「めぞん一刻」
「悲しみよこんにちは」は、フジテレビ系アニメ「めぞん一刻」のOP曲に起用されました。それゆえ「アニソン」のくくりとなったことで、その後も長きに渡り、多くのアーティストにカバーされる楽曲となっていきました。
「資生堂モーニングフレッシュ」
斉藤さんと資生堂との付き合いもこの曲から始まりました(のちに斉藤さん出演の舞台「レ・ミゼラブル」のメインスポンサーにもなりました)。斉藤さんを起用したこのCMが、その後のバブル期の「朝シャン文化」の発祥元ともいわれています。
アルバム「ガラスの鼓動」で作詞家デビュー
1986年3月に発表されたアルバム「ガラスの鼓動」において、斉藤さんは自身初のオリコン1位を獲得しました。
斉藤さんはこのアルバムから作詞(「千の羽音」「月野原」「お引越し、忘れもの」「今だけの真実」)にチャレンジします。アイドルの作詞というと、通常はほぼゴーストライターが担当するものですが、斉藤さんの作詞は本格的であり、本人のこだわりも相当なものだったとされています。
「ガラスの鼓動」全曲プチレビュー
「千の羽音」インストゥメンタル曲。詞は歌詞カードのみに表記
「月野原」歌詞にアルバムタイトルの「ガラスの鼓動」がある
「土曜日のタマネギ」アカペラ曲。この後12インチシングルに
「初戀」いとしいとしと言うこころ
「情熱」映画「雪の断章‐情熱‐」主題歌
「コスモス通信」最後のラララ♪のタメが天才的
「パジャマのシンデレラ」可愛らしい良曲
「お引越し・忘れもの」実話がモデルだとラジオで明かす
「海の絵葉書」松本&筒美の佳曲。今も夏はヘビロテ
「今だけの真実」本人曰く「これ以上の歌詞は一生書けない」
朝の連続ドラマ「はね駒」
1986年4月から放送されたNHK朝の連続ドラマ「はね駒」のヒロインに斉藤さんが起用されました。これは前年に行われたオーディションによって実力で選ばれたものであり、前年の斉藤さんの「スケバン刑事」の降板の理由は、このドラマのオーディションに受かった事が影響していたのです。
女優として開眼
斉藤さんはこのドラマで日本における女性新聞記者の先駆けとなった「橘りん」役を演じました。多忙に多忙を重ねるかのような撮影は大変だったそうですが、その中で斉藤さんは
「この頃は本当に忙しくて過酷なスケジュールだったんですけど、お芝居に集中した時に、カメラや周りのスタッフの存在がふっと消える瞬間があって、その時に演じるって素晴らしいと感じました」
と、女優として開眼して行きます。
撮影が進むにつれ斉藤さんの演技力はぐんぐん上がっていき、終盤には共演の樹木希林さんからも「由貴ちゃんにはなんの心配もしてない」と全幅の信頼を得るようになっていったのです。
40%越え
「はね駒」の平均視聴率は40%を超え、これを機に斉藤さんのイメージは「アイドル歌手」から「女優」へと、次第にシフトしていくようになりました。
「青空のかけら」オリコンシングル1位
1986年の8月に発売されたシングル「青空のかけら」がオリコンシングルチャートで自身初の1位を獲得しました。これで3月のアルバム「ガラスの鼓動」のアルバムチャート1位獲得に続く形となり、斉藤さんはレコード部門おいて、トップの座に上り詰めた形となりました。
「青空のかけら」は軽妙なポップソングではありましたが、正直、名曲という感じではありませんでしたので、これで1位をとってしまうところに、当時の斉藤さんの勢いを感じます。
コンサートツアー'86「Poetic」
9月からは昨年に引き続き、2度目の全国コンサートツアーがはじまりました。このツアーは当時の斉藤さんの歌唱の安定感が高い評価を受けており、ライブアルバム「POETIC live 1986」として23年後(!)の2009年にリリースされました。
セットリスト
「月野原」
「悲しみよこんにちは」
「パジャマのシンデレラ」
「指輪物語」
「コスモス通信」
「初戀」
「卒業」
「情熱」
「白い炎」
「AXIA〜かなしいことり〜」
「石鹸色の夏」
「お引越し・忘れもの」
「ささやきの妖精」
「手のひらの気球船」
「海の絵葉書」
「青空のかけら」
「今だけの真実」
サードアルバム「チャイム」
歌手として売れるうちに売り切ってしまえ…というわけではなかったのでしょうが(たぶん)、前作「ガラスの鼓動」から、わずか半年余りで次のオリジナルアルバム「チャイム」が発売されました。
アイドルポップアルバムの名盤と評される作品ですが、当の斉藤さんは「あまりにも忙しすぎて、アルバムのジャケットのセーターを頂いたことくらいしか覚えていないです」と後に語っています。
「チャイム」全曲プチレビュー
「指輪物語」CD版にのみ収録。可愛らしいけど少し怖い曲
「予感」当初は斉藤さんの作詞ではないはずだった超名曲
「悲しみよこんにちは」卒業とは別の意味での卒歌でもある
「ストローハットの夏想い」午後のショッピングのような曲
「つけなかった嘘」いかにもアルバム曲という感じの実験作
「いちご水のグラス」斉藤さんが歌詞で苦しんだ曲
「青空のかけら」CD版にのみアルバムバージョンを収録
「水の春」ファン人気の高い隠れた名曲。完成度高し
「自転車に乗って」「かなしいことり」に続く二股曲
「アクリル色の微笑」崎谷健次郎節がうなりまくり
「SORAMIMI」いかにも斉藤さん的な曲
「あなたの声を聞いた夜」ラストを彩る静かなバラード
オリジナルビデオ第2弾「漂流姫」
香港ロケのオリジナルムービーで「斉藤由貴禁止令が発動された世界」というコンセプトで物語が進んでいきます。あの岩井俊二監督に大きな影響を与えた作品ということで有名な作品ですが…僕はさっぱり覚えていません。実際に購入したのですが、斉藤さんが泳いで川を渡るシーンしか記憶にありません…確か写真集がセットだったような…
主演映画第2弾「恋する女たち」
斉藤さん主演映画の第2弾「恋する女たち」が12月に公開されました(しかし本当にハードスケジュールですね)。この作品は前作の「雪の断章‐情熱‐」に比べると「アイドル映画色」がとても強い作品となりましたが、ここで斉藤さんは大森一樹監督と出会い、以後3本連続で映画を共に作り上げていくことになります。
高井麻巳子さんとの友情
芸能界にリアルな友人がなかなかできなかった斉藤さんですが、この映画で共演した高井麻巳子さんとの友情はその後も長く続くこととなりました。ちなみに高井さんと秋元康さんの交際を後押ししたのは斉藤さんとのことです。
ヌード画
映画のラストでは、小林聡美さんが演じる絹子が描いた多佳子(斉藤さん)のヌード画が登場するのですが、それがあまりにもショボい出来でありまして、当時美大を目指す高校生だった筆者が「俺に描かせろ」と思ったのは言うまでもありません。
シングル「MAY」
映画の主題歌になった「MAY」は、斉藤さんの楽曲の中でも非常に人気の高い曲です。特に女性からの人気が高く「ザ・ベストテン」へのリクエストハガキの大半は、女性からのものだったそうです。
紅白歌合戦の紅組キャプテンに抜擢
1986年の紅白にて斉藤さんは初出場を果たします。そして歌手としての出場どころか「史上最年少のキャプテン」にも選ばれたのです。当時の紅白のグレードは今よりも遥かに上でしたので、その事は世間にも大きな驚きをもって受け止められました。これは斉藤さんが芸能界の国民的タレントの正統後継者であることを、大きく世に知らしめることとなったのです。
白組キャプテンの加山雄三さんの「仮面ライダー」発言でも有名な紅白でしたが、大きなトラブルもなく番組は進行し、最終的には白組勝利となりました。
その時、斉藤さんは紅組が負けた悔しさとキャプテンという重責から解放された安堵感に号泣し、紅組の先輩歌手たちに支えられながらエンディングを迎えました。
こうして斉藤さんの1986年は涙涙で幕を閉じたのでありました。
1987年の斉藤由貴
年明け早々、第10回日本アカデミー賞の授賞式があり、斉藤さんは新人賞を受賞しました。1987年の斉藤さんはアイドル歌手としての活動を徐々にフェードアウトさせつつ、女優方面に完全に舵を振り切って進んでいきます。
あまえないでョ!
斉藤さん主演のフジテレビ系列の連続ドラマ「あまえないでョ!」が1987年1月からオンエアされました。斉藤さんにとってはコメディードラマ初出演です(「スケバン刑事」をコメディーと含めないのならばですが…)。
当時の日本はバブル景気に浮かれ始める時期でありまして、TVドラマの世界も明るくコメディタッチのものが好まれる傾向にありました。斉藤さんのこのドラマも平均視聴率が21%という大ヒット作になり、ドラマの主題歌(「Give me up」)を担当したBaBeもブレイクを果たしました。好評につき、同年9月には90分尺のスペシャル版もオンエアされました。
斉藤さんちのお客様
4月からはフジテレビのゴールデンタイムにて「斉藤さんちのお客様」というトークバラエティーが始まります。斉藤さんはメイド役の室井滋さんとともに、毎週異なるゲストを迎え、ドラマ仕立てのトークショーを披露しておりました。
この番組においてはゲストのみならず、斉藤さんの「天然キャラ」という新たな魅力も存分に発揮されていきました。
アルバム「風夢」
同じく4月には4枚目のオリジナルアルバム「風夢」がリリースされます。このアルバムはいわゆる「アイドル歌手」のアルバムとしては、ここで一区切りと位置付けされるものになっています。この後、斉藤さんの音楽活動全般はアイドルシーンから作家性の強いものへと移行することとなり、作品のリリースの間隔も開いていくようになります。。
そしてこのアルバムはLP版とCD版では収録曲が違うだけでなく、曲順もかなり異なっているアルバムです。そしてそのあたりにも、当時の斉藤さんの多忙のしわ寄せというものが、音楽制作サイドに来ていたことが伺えます。
歌詞カードの歌詞のところどころに色がついており、それを繋ぐと『幸せなんてほんとはありきたりさつづくよつづくよ』となります。これはアルバムのラストソングの『家族の食卓』の歌詞になっています。
「風夢」全曲プチレビュー(CD版)
「ONE」全編英語のカッコいい曲。斉藤さんもお気に入り。
「体育館は踊る」年齢的にちょっともう厳しい世界観
「 親知らずが痛んだ日」シコココカコカコシコカコカコ♪
「Side Seat」淡々とした良曲
「12月のカレンダー」耳から耳に抜けていく曲
「記憶」元オフコースの鈴木康博氏の提供曲
「ひまわり」もとは「いちご水のグラス」の歌詞になるはずだった歌詞
「砂の城」シングルカット曲。歌詞も曲もちょっと子供っぽい
「MAY」超名曲
「眠り姫」歌詞のハマりがイマイチ。なんかまどろっこしい
「街角のスナップ」大瀧詠一の「木の葉のスケッチ」へのアンサー風
「風・夢・天使」表題曲だが「月野原」に比べて完成度低し
「家族の食卓」こんなこと歌われてもという気がしないでもない
「街角のスナップ」PV
「レ・ミゼラブル」で初舞台
1985年6月、東宝のビッグプロジェクトである「レ・ミゼラブル(日本版初演)」にて、斉藤さんは初代コゼットとして舞台デビューします。
人気絶頂期の斉藤さんはいわゆる「広告塔」としてのプロモーションの役割も積極的に引き受けます。結果、11月まで続いた大舞台は大入り札止めが定番となりました。斉藤さんは商業的にもレ・ミゼラブルを大成功に導きました。
そしてこの時の成功体験というものは、斉藤さんの女優志向を一段と強くしていったのでした。
「トットチャンネル」黒柳徹子の自伝的映画
8月には主演映画第3弾「トットチャンネル」が公開されました。黒柳徹子さんの自伝的エッセイがもとになっている映画で、監督は「恋する女たち」に引き続き大森一樹監督が勤めました。
原作者の黒柳徹子さんはこの映画を鑑賞して、感動して涙を流されたそうです。そして主演の斉藤さんに感謝の証として象牙の指輪をプレゼントしたそうです。
そんなわけで1986年の夏は舞台に映画にと充実の夏でしたが、その一方で、2年続けていた夏のコンサートツアーはこの年は行われませんでした。
シングル「さよなら」
映画の主題歌にもなった10枚目のシングルで、原由子さんの曲に斉藤さん本人が歌詞を書いています。本人の作詞曲がシングルになったのはこれが初めてでした。曲そのものは地味でありまして、詩の方も斉藤さんにしては実に無難というか、正直、シングル曲としては、これといってキャッチーな感じはない仕上がりになっています。「「さよなら」の女たち」大森一樹監督作品第3弾
12月には斉藤さん主演で大森一樹監督の「「さよなら」の女たち」が公開されました。大森監督とは3作連続で、なおかつこの年には2本という超ハイペースでの映画制作となりました。
大森監督は「(斉藤さんと二本の映画を撮った)1986年は映画が舞い降りる年だった。何を撮っても上手く行く。僕の監督人生であんなことはもうないんじゃないかな?由貴ちゃんは幸運を運んでくれた女神様」と斉藤さんへの最大限の賛辞を送っています。
結果、この年度の日本アカデミー賞において、大森監督は優秀監督賞、斉藤さんは優秀主演女優賞を獲得することとなりました。
紅白辞退で女優業に邁進
その一方で、前年度は紅組キャプテンを務めた紅白歌合戦の出場オファーには、斉藤さんは断りを入れていたことも明かされました。ここでも明確な女優志向というものが見て取れます。
セーラー服でデビューした斉藤さんも21歳になっていました。アイドル時代との決別というものに関しては、この1987年末というのは、ちょうどいい頃合いだったのかもしれませんね。(了)
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