ブルーザーブロディ【新日本時代の2つのボイコット】1985‐1986 スキップしてメイン コンテンツに移動

ブルーザーブロディ【新日本時代の2つのボイコット】1985‐1986

 1980年代に「世界最強のレスラー」と謳われた超獣ブルーザーブロディ。彼は1973年のデビューから1988年に非業の死を遂げるまで、本当に様々な伝説を生んだプロレスラーでした。今回は彼が新日本プロレスに参戦した際に起こした『二つのドタキャン事件』に絞って噺をしていきたいと思います。


1985年『IWGPタッグリーグ優勝戦ボイコット事件』

上機嫌のブロディ

1985年春に全日本プロレスから新日本プロレスに移籍したブルーザーブロディ選手は、アントニオ猪木選手とのシングル戦での抗争続け、その年の年末には全日本時代の盟友だったジミー・スヌーカ選手と組んで、年末恒例のIWGPタッグリーグ戦に参戦する事となりました。

優勝の大本命として大会の前夜祭に臨んだブロディ選手は、インテリジェンスモンスターの異名通り、スーツ姿で登場し「我々のチームは全日本プロレスの世界最強タッグリーグと、この新日本プロレスのIWGPタッグリーグの両方を制する、史上初めてのチームになるだろうと上機嫌で宣言しておりました。

そしてその言葉を裏付けるように、実際のリーグ戦においてもブロディ&スヌーカ組は快進撃を続け、勝ち点トップで決勝戦進出を決めたのです。

しかしながらその水面下では、このIWGPタッグリーグ戦の結末をめぐって、ブロディサイドと新日本プロレスサイドで激しい対立があったのでした。

木村健悟推しの方針

主催の新日本プロレスは、このタッグリーグ戦の優勝者を藤波辰巳、木村健悟組と決めていましたなぜそうしたのかと言いますと、まず一つは藤波&木村という新世代が確実に成長している事を内外に示したかったということ。そしてもう一つは、優勝後に2人を対立させ、その後にライバルとして競わせようとしていたことです。このタッグリーグ戦において、これが一番大きな目的でした。

当時の新日本は、若手の有望株だったカルガリーハリケーンズ(SSマシン、高野俊二、ヒロ斎藤)が団体を離脱してしまい、本当に日本人の選手層が薄くなっておりました。特に本体要員として大事に育ててきたSSマシーン選手の離脱の影響は、期待が大きかったゆえに、とても大きいものがあったのです。

そこでオーバーさせようと選ばれたのが木村健悟選手でした。ここまで木村選手は藤波選手に対して格下の印象がありましたので、このリーグ戦を一緒に制することにより、藤波選手に近い位置まで木村選手の「格」を上げようとしていたのですね。

さらに新日本プロレスは藤波&木村組が、ただ単に優勝するだけではなく、シリーズの最終戦において「決勝進出決定戦」の猪木&坂口組との試合と、「優勝決定戦」のブロディ&スヌーカ組との試合を当日2連戦で行わせ、それに2連勝して優勝させようとしていたのです。今にして思えば「第1回G1の蝶野選手の優勝」の元ネタ的な感じもあるような、確かにインパクトのある勝ち方ですよね。 


納得しないブロディ

新日本の木村健吾推しの方針に対し、猛反対したのがブロディ選手でした。

来日したブロディ選手のもとを「マッチメイカー&外国人係」のミスター高橋レフェリーが訪ねて、このタッグリーグの優勝チームが「藤波&木村組」だというストーリーラインを告げに行きます。するとそれを聞いたブロディ選手は、さも大げさに驚いたような表情を見せ、「それじゃ面白くないだろう。まだまだ藤波も木村も若い。今回は我々が優勝した方がいい」と自チームの優勝を強固に主張したそうです。

その態度はあくまで頑であり、これまで数多の外国人選手の世話係をしてきた高橋レフェリーをして「この人はなんでこんなに頑固なの?」というレベルであったそうです。そしてブロディ選手は毎日のように不平不満を言いに宿舎の部屋を訪ねてくるので、そのノックの音が当時は本当に憂鬱だったと後に語っておられます。


ブロディ選手がそこまで勝敗に頑なになったのには理由がありました。それは彼が心を許す数少ないプロモーターのフリッツフォンエリック(「鉄の爪」と呼ばれたプロレスラー)氏の「簡単に負けを許してはレスラーとしての商品価値が下がる」という教えからの影響だったのです。

ブロディ選手は自身のレスラー人生において、その教えというものを本当に徹底して順守しておりました。それゆえに今回のように自分たちが「決勝戦という大舞台で若いコンビに負ける」ということ、しかもそれが「2試合目という体力的ハンディのある相手に負ける」ということは、そのレスラー哲学に全く反するものだったのです。

落としどころ

その後、高橋レフェリーの粘り強い交渉の結果「藤波&木村組が猪木&坂口組とブロディ&スヌーカ組に2連勝して優勝する」というストーリーを「猪木&坂口組は決定戦を負傷欠場。藤波&木村組とブロディ&スヌーカ組の決勝戦の結果、辛くも藤波木村組が優勝すると変えることで、何とかブロディを納得させることに成功しました。それは自チームの優勝を主張していたブロディ選手にしてみれば、最大限に譲歩したものでもあったのです。

決勝戦前日、福生大会で急遽組まれた「ブロディvs坂口」のシングルマッチにおいて、ブロディ選手は坂口選手の足を椅子攻撃で徹底的に攻め、予定通りに負傷させました。これで翌日の決勝戦は打ち合わせ通り、持点トップのブロディ&スヌーカ組と藤波&木村組の決勝になるはずでした。

坂口選手の心変わり

しかし決勝当日の早朝、高橋レフェリーのもとに坂口選手から電話が来ました。それは「やっぱり俺は出場するよ」というものだったのです。つまり一番最初の予定通りに、猪木&坂口組が藤波&木村組と「決勝進出決定戦」を行うということでした。それは坂口選手がブロディのワガママにいい加減付き合いきれないという意思の表れでもあったのです。

これは一度はみんなで同意した「欠場アングル」を土壇場で反故にするという事ではありましたが、実際、高橋レフェリーもブロディ選手のワガママな要求にウンザリしていましたので、坂口選手の申し出を了承したのです。

ボイコット事件勃発

決勝戦は宮城県で行われるため、各選手は東京駅発の新幹線の中にいました。高橋レフェリーはブロディをデッキに呼び出し、そこでアングルの再変更を告げたのです。

するとブロディ選手は「ファッキン!新日本の連中はみんな馬鹿野郎だ!」と怒り狂い、制止する高橋氏を突き飛ばし「こんな会社には用はない!」と、パートナーのジミー・スヌーカ選手ともども新幹線を降りてしまいました。「待ってくれ!今日はギャラの支払日だぞ!」という高橋レフェリーの言葉にも、二人は振り向きもしませんでした。

「どうってことねえよ」

ブロディ選手の離脱を高橋氏から伝え聞いた猪木選手は、新幹線の座席に座ったままそう言ったそうです。猪木選手は猪木選手で、ブロディ選手のこれまでの振る舞いにうんざりしていたのです。そしてその場で高橋レフェリーの「藤波のドラゴンスープレックスで(フォールを)取られてください」という提案を受け入れたのでした。

ホテルに籠城

一方のブロディ選手はスヌーカ選手とともに東京駅からタクシーでホテルに戻り籠城します。そしてそこに旧知のプロレス記者を呼び出します。その記者は全日本プロレス系の馬場派の記者であり、そこでブロディ選手は「新日本プロレスを選択したのは38年の人生で初めての失敗だ」「たとえレスラーブロディのスキルは金で買えても、フランク・グーディッシュ(本名)の魂までは買えない」と不平不満をぶちまけました。

そしてそれは全日本プロレスへの復帰の意志を示すものでもあったのです。ブロディ選手は、もうこの時点で新日本プロレスに見切りをつけ、全日本プロレスへカムバックする事への青写真を思い描いていたのでありました。

しかし当時のプロレス界は、第3極として急速に力を付けてきた「ジャパンプロレス」の独立に対抗すべく、老舗の新日本プロレスと全日本プロレスが一時的に手を結んでいた時期でした。だから新日本の大会をボイコットしたブロディ選手を使うという選択肢は、全日本の馬場選手の頭には全くなかったのです。それゆえにコメントを求められた馬場選手は「裏切って出て行った選手をまた使ったら笑われてしまうよ」と、ブロディ選手の移籍を明確に否定したのでした。

結果的に大団円

ブロディ不在のIWGPタッグリーグの優勝戦は猪木&坂口組と藤波&木村組の対決になりました。会場にブロディ&スヌーカ組の欠場がアナウンスされると、高橋氏曰く「拍子抜けするほど反応が無かった」という状況だったそうです。これはかねてより噂されていた『ビックネームの割に会場集客力がない』という噂を、ブロディは自身のボイコットにより、間接的な形で自ら証明した形になってしまいました。

決勝には坂口選手の足の負傷というアングルがそのまま用いられ、この試合の大盛り上がり要因になりました。最終的に藤波選手が猪木選手を幻の技である「ドラゴンスープレックスホールド」でピンフォールしました。藤波&木村組はタッグながらも初の師匠超えを果たし、正に大団円という形で大会に幕を閉じたのです。

大会の成功に加え、UWFと業務提携も決定したことにより、新日本プロレスではブロディ不要論の声が一気に高まりました。

ラストチャンスも不発

その後、12月25日のクリスマスにテキサス州ダラスで行われたWCCW(フリッツ・フォン・エリック氏の団体)のビッグマッチに猪木選手と藤波選手が参加したのですが、実はそこにブロディ選手も参加していたのです。
両者の間にはMSGタッグリーグのギャラの支払いや、最終戦ボイコットのペナルティーについて、さらには今後のビジネスの事など、そこで直接話し合うべき問題は沢山あったはずなのですが、お互いに接触は望まず、そのままブロディ選手は日本マットを追放処分になっていまいました。

こうして1985年の一度目のボイコット事件は幕を閉じたのです。


1986年『前田戦&アンドレ戦 来日ボイコット事件』

ブロディ選手は翌1986年年にも試合キャンセル騒動を起こしています。それは俗に「前田戦、アンドレ戦の敵前逃亡」と言われているものです。これはある意味で分かりやすかった前年の決勝戦ボイコット事件に比べて、今ひとつ真相が分かりにくい事件なのです。では時系列で噺を進めていきましょう。

ブロディがAWAへ

年明け早々、ブロディ選手はアメリカでの主戦場を、これまでの南部ダラスWCCWから、東部ミネアポリスのAWA(バーン・ガニア氏の団体)に移します。

これは盟友のスタン・ハンセン選手が、同団体の王者になったことが大きかったのですが、ブロディ選手の真の目的は、新日本プロレスと提携をしているWCCWよりも、全日本プロレスと提携しているAWAマットを主戦場にすることにより、全日本マット復帰を画策していたものと思われます。 

4月にミネソタドームでAWA史上最大のビッグマッチ『レッスルロック』が行われました。バーン・ガニア氏がプロデュースしたその大会は、全日本プロレスの全面バックアップの下で行われたのですが、その大会に参戦したブロディ選手は、馬場選手のもとを訪れ直談判したのです。

しかし全日本プロレスは新日本プロレスと、選手のプロテクトの協定を結んでおり、それゆえ新日本とのトラブルがクリアされてないブロディ選手に対する馬場選手の反応は、実に冷たいものでした(一説には無視したとも伝えられている)。ブロディ選手はここで初めて新日本プロレスとの話し合いを行う事の重要性を痛感したのです。

エリック氏の仲介で新日本と再接触

ブロディ選手はまたダラスに戻り、WCCWのフリッツ・フォン・エリック氏に新日本との仲介を頼みます。エリック氏の口利きに好感触を得たブロディ選手は、新日本プロレスとの再接触を決意します。

8月にハワイマットで行われたメイビア派のビッグイベントに新日本プロレス勢が参戦しました。当然猪木選手も参加します。その噂を聞き付けたブロデ選手は米マットでの試合をドタキャン(懲りないですねえ…)し、同イベントに緊急参戦しました。当日のブロディ選手はかなりナーヴァスだったそうで、取材に来たプロレス誌の記者たちは、シャワールームから全裸で飛び出してきたブロディ選手に追いかけられ、撮影機材を破損されたそうです。

試合翌日、ワイキキビーチでくつろぐ猪木選手らのもとに、アポなし(と言われている)で接触したブロディ選手は、大声で自分の主張をぶちまけました。突然のことに猪木選手は驚きながらもブロディ選手に紳士的に対応しました。その後、ブロディ選手と新日本の話し合いが始まり、MSGタッグリーグのギャラの支払いと、ドタキャンした試合のペナルティについて、前向きに問題を解決していくことに合意したのです。


和解成立で新日本に再登場

その後、ブロディ選手と新日本プロレスの和解というビッグニュースが報じられました。そしてブロディ選手は特別参加という形で秋の新日本のシリーズに参加し、そこで9月16日の大阪城ホール大会で猪木選手と、さらには9月19日の福岡大会では藤波選手と、それぞれシングルマッチを行うことが発表されました。急転直下の展開に皆驚きましたが、ブロディ選手は本当に来日を果たしたのです。

しかし来日したブロディ選手は何だか心ここにあらずという雰囲気で、前向きな言葉はほとんど何も言葉を発しませんでした。このときに関わった多くの関係者は「あの時のブロディは本当に覇気がなかった」と口をそろえて証言しています。これなどは正にブロディ選手自身は新日本の再登場に対して実は全く前向きでなかったことが伺えるエピソードです。

前田戦待望論と猪木選手とのフルタイム戦

猪木選手とブロディ選手は1985年に6試合(!)もシングルマッチを行い、ピンフォールでの決着は1試合もありませんでした。それゆえ不透明決着のマンネリは否めないものがあり、ファンの間からは『もう猪木じゃなくて前田と闘えよ』という声すら上がっていました。

そして業界紙もそのファンの流れに追随し「前田VSブロディ」待望論が起こったのです。せっかく来日するのなら旬の前田との戦いが見たいというファンの熱望です。これは当然、猪木選手にとっては面白くない出来事でした。

猪木選手はマンネリ打破のために60分3本勝負を提案します。これは「お互いに1フォールずつ取って、3本目は時間切れ引き分けにしよう」という事でした。しかしブロディ選手はその提案を受け入れず、試合当日まで、ルール問題は揉めに揉めたのでした。

最終的に猪木選手がブロディ選手の意見を受け入れ「60分一本勝負」に決定します。両者は審判部長の山本小鉄氏を仲介人として合意の握手を交わしました。
僕はこの光景を見て「ブロディはらしくないことをするなあ」と感じたものですが、ブロディ選手からすれば、ここで必要以上にトラブルメイカーだと思われるのは得策じゃないという感じだったのでしょう。

試合そのものは白熱した好勝負となり、試合後もクリーンな雰囲気が流れておりました。まさに「猪木vsブロディ新章突入」というところですが、しかしながら今にして思えば、ブロディ選手が3本勝負を受け入れなかった時点で、猪木選手の中ではブロディ選手という存在が既にアウトになっていたのだろうなと思われます。

ジャーマンで投げられた藤波戦

続く福岡での藤波戦もなかなかの好勝負となりました。この試合では終盤に藤波選手のジャーマンスープレックスホールドが炸裂します。ブロディ選手がジャーマンスープレックスを食らったのは生涯でこれが唯一の事です。その後、試合は両者リングアウトで幕を閉じました。

「ブロディはいかにも全日本という感じでやり辛かった。自分の中の決まった動きがあって、それを絶対に崩そうとしない選手」藤波選手

ちなみにこの試合は結果的に新日本マットにおけるブロディ選手の最後の試合になったのですが、実はこの試合は「ワールドプロレスリングにおける最後の金曜8時生中継試合」でもあったりするのも何だか実に皮肉めいたところです。

前田戦とアンドレ戦の発表

ブロディ選手は年末のタッグリーグ戦にジミー・スヌーカ選手とのタッグで出場することが決定しました。そして何より驚いたのは「特別試合」として11月24日の札幌大会で前田日明選手と、さらには12月10日の大阪大会でアンドレ・ザ・ジャイアント選手と、ブロディ選手がそれぞれシングルマッチを行うことが発表されたのです。いきなりの超ドリームマッチの発表に、プロレスファンの間では歓喜の輪が広がりました。

しかし長らくプロレスを見てきた「すれっからしファン」の間には「流れも前哨戦もないままに、こんな危険なビッグカードをいきなりやるもんかね?」という疑念の声も上がっていたのです。そんな声に対してマスコミは「前田vs
ブロディには危険なシュートマッチの匂いがする」と意に介せず、実に不穏に盛り上げておりました。
さらに新日本は「ブロディvsアンドレ」のテレホンカードまで作る熱の入れようです。
ここまでするなら本当に実現するだろうということになり、当然両大会のチケットは飛ぶようにさばけていきました。

やはりブロディ来日せず

新日本プロレスはブロディ選手の来日予定日の前日に「私的な理由による契約解除」という理由でブロディ選手が来日をボイコットしたことを発表しました。
そしてその上でブロディ選手を永久追放処分にしたのです。前田戦とアンドレ戦を信じて待っていたファンは心の底から失望しました。

ブロディはその後、前田に「前田よ!大口叩いてないで俺と戦え!」というメッセージをマスコミを通じて送りつけてきましたが、敵前逃亡した卑怯者というイメージダウンは、なかなか払拭できないものになりました。

新日本のサギなのでは?


「ブロディ戦はアンドレよりは大変だろうなと。でも当時、もうブロディは新日本には来ないという噂が流れていたから、本当に実現するのかなと思っていたら、案の定ああいうことになった」前田日明

「アンドレ選手は映画の出演が急遽決まり来日できなくなりました」公式アナウンス

様々な意見を統一すると、そもそもブロディ選手が来日しないであろうことは、新日本サイドは判っていたのだと思います。だからこそ出来もしない前田戦やアンドレ戦を発表してチケットを売り、責任を敵前逃亡という形で全部ブロディ選手になすりつけたというのは、もはや確信犯的詐欺行為以外の何物でもないでしょう。それは興行団体として、かなり悪質なやり口だなと感じます。

もともとブロディ選手が新日本にカムバックしたのは、未払いだったIWGPタッグリーグのギャラの回収と、さらにはボイコット分の「穴埋め試合」の提供が目的でありました。ブロディ選手にしてみれば、前回の事件の筋を通したうえで、水の合わない新日本プロレスとの関係を奇麗に終わらせたいと思っていたのです。

結論:二度目のボイコットは濡れ衣だった

僕はそんな新日本プロレスのやり方と、ブロディ選手側の言い分を認めたからこそ、馬場選手はブロディ選手の全日本プロレス復帰を許したのだろうなと思っています。はい。そしてその復帰に際して、ブロディ選手が新日本マットで一切ピンフォールを許して来なかったことが大きな手土産になったのでした。

長くなりましたので、この後のブロディ選手についてはまた改めて噺しますね。




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