1982年に尾崎豊さんはCBSソニーのオーディションに合格し、翌年の12月にシングル「15の夜」と、アルバム『十七歳の地図』にてレコードデビューを果たします。
その後、デビューライブは1984年の3月に行うことが決まり、1984年の年明けからバンドメンバーと共にリハーサルを始めました。今日は後に「伝説」と呼ばれる尾崎豊デビューライブについての噺です。
デビューライブに向けて
バックバンド「Heart Of Klaxon」
ライブに向けてまずは尾崎さんのバックバンド探しが始まりました。
尾崎さんの所属事務所マザーでHOUNDDOGのマネージャーを務めていた本木元さんが、知人のバンドの「エイプリルバンド」に声をかけ、そのまま尾崎豊さんの専属バンド「Heart Of Klaxon」としてライブデビューさせようとしたのです。
しかしながら母体となったエイプリルバンドは「日本一緊張感のないバンド」というのがモットーという中堅バンドで、悪い意味で慣れが出ていたバンドでした。
デビューアルバムの製作において、尾崎さんは凄腕のスタジオミュージシャンとレコーディングしたばかりでした。それゆえに、このエイプリルバンドが醸し出す「ヌルさ」に対し、尾崎さんが強く不満を漏らすこともあったようですが、そこはマザーの福田社長が「お前がこのバンドを育てるんだ」と強く諭したそうです。
そしてバンドメンバーの方も尾崎さんが持つ特別な才能というものにすぐに気が付き(「天才を超えた超天才」とのこと)、そこからリハーサルは、実に熱がこもったものになっていったそうです。
高校の卒業式当日にデビューライブ
尾崎さんは通っていた青山学院付属高校を喫煙&飲酒騒動で無期停学処分となり、卒業間近に自主退学します。尾崎さんのデビューライブはその通っていた高校の卒業式の日に「新宿ルイード」において行われることが決定しました。
尾崎さんは当日、通っていた高校の前にライブのビラを張り、そこに「みんなおめでとう!よく頑張ったな!」と書き連ねました。ライブ当日は高校の同級生が多数詰めかけ、彼等が叫ぶ「ユタカコール」会場内に響きわたっていたのです。
300枚のマスコミ招待券
デビューライブを行う新宿ルイードは、新宿東口の紀伊國屋本店の側にある定数150(消防法無視でMAX200)規模のライブハウスでした。
しかしながらプロモートを手掛けたマザーの福田社長は、音楽マスコミ関係に定員無視の300枚もの招待券を配ったのです。
当日のライブには600人の観客が殺到し、当然マスコミ関係にはあぶれる人も多数いたわけですが、これこそが福田社長の狙いでした。
当日の狂乱ぶりを体感した多くのマスコミにより、デビューライブの模様は各方面に伝えられ、いつしかそれは伝説化していったのです。
伝説のライブ
いよいよデビューライブ当日の1984年の3月15日です。ギリギリまで自分自身でライブ告知のビラを貼っていた尾崎さんは、少し遅れてルイードに到着しました。
600人の観衆が詰めかけている状況だけに、尾崎さんの登場で混乱も心配されるところでしたが、そもそもその時は彼のビジュアル自体がほとんど世に広まっていない時期でもありましたので、一部の『あれって尾崎じゃね?』というヒソヒソ話以外は、さしたる混乱もなくスムーズに会場入りする事ができたそうです。
開始前
ライブ前、楽屋まで聴こえる同級生の雄たけびに、思わず笑顔をこぼす尾崎さんに「笑うなよ」とメンバーがクギを刺します。すると尾崎さんは頬を自分で叩いて、さらにはシャドーボクシングで気合を入れました。気持ちが集中したところで、いよいよ開演です。
「街の風景」
「はじまりさえ歌えない」
曲の始まりでPA機材に飛び乗ったり、間奏でバンドメンバーとも絡んだりと、尾崎さんも実に楽しそうです。歌の方も緊張が少し溶けたのか、声の裏返りも気にせず、かなり伸びやかに歌っていますね。
「Bow!」
ブルースハープからのボーカルの入りが上手く行きませんが、バンドが音をバッチリ合わせてくれてます。
尾崎さんがブルース・スプリングスティーンの強烈なフォロワーであることは、このステージでも一目瞭然なわけですが、さすがにこの曲は「Crush on you」に似すぎだろうと思ってしまいます。でもまあここまでやってしまえば個人的には文句というものはありません。歌詞で描かれているブルーカラー感も(当然の事ながら)スプリングスティーンへのオマージュなのでしょうし。
mc1
「どうもありがとう 僕はまだ18だけど、今まで18年間生きてきて、いろんな人と出会ったけど、僕はそのたびに、人を傷つけてきたような気がします。そんな歌を歌います」
自己紹介すら行わずに始まった初のMC。そこで語られる言葉も、さらには話す際の間の取り方も本当に素晴らしく、尾崎さんは天性のエンターテイナーなんだなと改めて感じさせられるところです。
「傷つけた人々へ」
その後のライブではほとんど歌われない曲なので、この演奏は本当に貴重ですね。アルバムの分厚いサウンドのアレンジとは異なり、ライブならではのフォークロック調のアレンジがなかなか心地よく、ファン人気もとても高いパフォーマンスです。ここでギターをテレキャスターからアコースティックに持ち換えます。
「僕が僕であるために」
ほとんどアルバムと同じアレンジで演奏されています。ピアノの井上さんの奏でる対旋律が、若い尾崎さんの声と相合わさって、本当に美しい限りです。歌い終わると尾崎さんはギターを預け、両手をポケットに入れました。
「Ⅰ LOVE YOU」
「プロデューサーたちよりも先に、バンドのメンバーはこの曲の重要性に気が付いていた。だから絶対失敗できないし、失敗したら尾崎に殺されるくらいの緊張感の中で演奏した」と証言したのは、この曲のエレピの演奏を担当した鴇田さん。
「OH MY LITTLE GIRL」
続けて同じくラブバラードの「OH MY LITTLE GIRL」が演奏されます。この曲は尾崎さんの死後に特に人気が出た曲で、1994年にドラマの「この世の果て」、2001年には映画「LOVE SONG」、2014年にも映画「ホットロード」と、合わせて3度も映像作品の主題歌になっています。ちなみに僕は「LOVE SONG」が大好きですね。キスもハグも「好き」も存在しないのに、ちゃんとラブストーリーとして成立している作品です。歌い終えた尾崎さんはテレキャスターを再び持ち、静かな口調で二回目のmcに臨みます。
mc2
「ついこの間、僕は学校を辞めまして、やっぱり学校を辞めるってことは僕ら…まあ僕はもう学生ではなくなったわけですけど、学生だった僕にしてみれば、人生死ぬか生きるかってくらいの本当に大変な事だったんで。
考えてみれば、学校なんてそんな大したものじゃないのかもしれない、なんて思っているんだけど。
僕の行ってた学校には礼拝っていうものがあって。これが結構いい話をして。悪人も必ず最後には救われる。そんな話を僕は最初は本気で信じて、一生懸命僕もお祈りしてました。だけど、学校を辞める間際になって、僕はそんな礼拝を聞きながら、この新宿のなんかイカレた連中のことや、ボロ着てる乞食のことや。別に生まれたくて貧しく生まれてきたわけでもないのに、なんか金持ちと貧乏の差っていうのが、なんか生まれ持った運命の中にしっかりあって、何かそんなことを考えているうちに、すごく祈ってることが陳腐に思えてきて。一番俺に何が必要かって言ったら、やっぱりこの街でどうやって強く生きていけるかってことだと思ったんです。
この街のなんか熱いハートと、なんか熱いビートが、いつも僕の胸には聞こえてきます。
ロックンロールを聴いてください」
「ハイスクールRoc'n'Roll」
物静かなmcから一転して、おどけた表情で歌い始める尾崎さん。ベースの田口さんと一緒にノリノリです。間奏のブルースハープが音を外しっぱなしで実に酷いもんですが、若さでなんとか誤魔化しました。そして曲の勢いのままmcに突入します。
mc3
「俺はただ自由になりてえだけなんだよ!俺はもう偽善的な礼拝なんか絶対受けやしねえんだ! そうだろ? 自由でなけりゃ意味がねえんだよ!お前ら本当に自由か?腐った街に埋れていくなよ。俺たちがなんとかしなけりゃ、何にもなんねえんだよ…12、1234!」
「十七歳の地図」
この日、個人的に一番カッコいいと思うのがこの曲のパフォーマンスですね。同曲のPVにも、この日の映像が実に効果的に使われています。この曲は尾崎さんが渋谷の東邦生命ビルで夕陽を眺めていた際に着想した曲です。
♪歩道橋の上 振り返り 焼けつくような夕陽が 今 心の地図の上で起こる全ての出来事を照らすよSeventeen's map♪
という歌詞はもう素晴らしいとしか言いようがないですね。
「愛の消えた街」
アルバム同様「十七歳の地図」からそのまま繋がる形で「愛の消えた街」がスタートしました。僕はこれを密かに「渋谷新宿コンボ」と呼んでおります。このときは勢いでテンポが前のめりになりがちな尾崎さんを、バンドメンバーがうまくサポートしていました。曲が終わると静かなピアノの旋律とともにmcです。
mc4
「俺は15の時に家出をして、たった1日、1夜のことだったんだけど、中学の時に「頭の毛を切ってこい」って言われて。俺はそれが物凄く嫌で10人の友達と家出しました。
バイクを盗んだり、冬で寒かったからジーパン屋のジーパンとか、着るものを山ほど盗んでみんなでわけたりして、訳わかんないことやってた。 俺はそれが良いことだなんて今は決して思ってない。
だけど最後に辿り着いたのが隣町の車のスクラップ置き場で、俺たちはそこで寒さを凌ぐために、そのスクラップの車の中で眠ることにしたんだ。ちょうど明け方の頃だった。
1時間か2時間か、みんなでそこで横になっていて、結局、俺たちのことを見回りに来てた先生に見つかって、みんな連れ戻されてしまったんだけれど、俺はあの時、10人の友達があの車の中でどんな夢を見ていたのか知らないけど、でもみんなほんとに、ああやって無理やり髪の毛を切られるのは間違ってるって思って、それを跳ね除けて正しい道へ、自分の思った正しい道へ進もうとしたっていう事は、僕は大切なことなんじゃないかと今でも思ってるし、そういったあいつらの気持ちを今でも、あいつらに、また僕自身に、これからもずっと、そういう気持ちは大切にしていかなくちゃいけないと思っています。
最後の曲『15の夜』を聴いてください」
「15の夜」
mcからつながる形で、お馴染みのイントロがスタートします。Bメロでバンドメンバーのコーラスが入るところがオリジナルとの違いですが、こちらもなかなか雰囲気があります。
尾崎さんの間奏とアウトロのブルースハープはかなり粗削りですが、それを超えて心に訴えるものがありますね。熱唱を終えて本編が終了です。
楽屋
楽屋へ戻るや否や、タバコに火をつけてニコチンをかき込むバンドメンバーたち。尾崎さんはコカ・コーラの紙コップでドリンクを飲んでいます。そこにアンコールを求める大ユタカコールが聞こえてきます。そのコールに対し「彼らはあれで楽しんでるみたいだから」と尾崎さんは笑顔を見せます。さらにはステージ上は「ライトがびんびんびんびん!」で「焼けたかな?」と鏡を見ながら心配していました「シェリー」アンコール1
シェリーのモデルにはさまざまな説がありますが、バンドメンバーの証言によると、当時の尾崎さんには高校の同級生だった彼女(原田知世似)がいて、みんなの中ではその子がシェリーだと認識されていたそうです。
その子は楽屋にもよく遊びに来ていたとの事なので、この日もルイードに来場していたのかもしれないですね。
mc5
「シェリー」のラストにmcが入ります。
楽屋
さっそくタバコを吸うバンドメンバーみなさん。尾崎さんは次の曲で一緒にギターを弾く鴇田さんに、曲の終わりの部分に関して「あれ難しいからもしかしたら一人でやってね!」と弱音を言います。それに対し鴇田さんは「できる範囲でいいよ。できなかったらパッとやめちゃって 独りでやるから」と答えてくれました。
「ダンスホール」アンコール2
「僕が新宿に、ディスコに踊りに来て、あの頃女子中学生の殺人があった頃、そんな頃作った歌を歌います」
アコースティックアレンジで寂寥感が増した「ダンスホール」。新宿のライブハウスで歌われるからこその痛切な響きがある曲です。そして尾崎さんが不安だったギター演奏は、間奏でかなり怪しくなるも、鴇田さんのフォローでなんとか演奏を続け、最後はピッタリ決めることが出来ました。
ダンスホールは最後の部分の歌詞が、この時はアルバム版と若干異なります。僕は両方のバージョンが好きなのでここに並べてみます(ちなみに他に「原曲バージョン」もあるのです)。
アルバムバージョン
♪昨夜の口説き文句も忘れちまって
今夜も探しに行くのかい
寂しい影落としながら
あくせくする毎日に疲れたんだね
俺の胸で眠るがいい
そうさお前は孤独なダンサー♪
ルイードバージョン
♪あくせくする毎日に疲れたんだね
俺の胸で眠るがいい
今夜はもう踊らず
昨夜の口説き文句も忘れちまって
今夜も探しに行くのかい
そうさお前は孤独なダンサー♪
ライブ後 ~懲りない社長~
ライブは大成功に終わりました。この日のライブの模様は、その目撃者たちから大きな熱狂をもって伝えられていきました。そして福田社長に騙される形でライブを体感したマスコミの人たちもそれは同様でした。実際にこの日、ルイード内にいたニッポン放送の上柳昌彦さんは、ラジオの世界で尾崎さんを猛プッシュしていく事になります。
こうして尾崎さんのステージ活動は始まり、それはそのまま、一年後の「卒業」の大ヒットと、尾崎さん自身の大ブレイクへとつながっていったのでした。
ちなみに、関係者に確信犯的に300枚のチケットをばらまいた福田社長は反省の証として頭を丸めました。そしてその姿で関係各所に謝罪行脚に向かったのです。しかし転んでも(?)タダで起きないのが福田社長であり、その際に、2か月後の5月に行う「尾崎豊ルイード2DAYS」のチケットを配り歩いたとのことです。今度はちゃんと定員以内に枚数を抑えたのか否かまでは、僕にはわかりませんが。
MUSIC
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