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オグリキャップ【天才武豊と怪物オグリキャップが生み出した永遠の伝説】1990

怪物『オグリキャップ』は平成黎明期の『競馬ブーム』を牽引していきました。今日はそんな伝説馬の引退レースについての噺です。 昭和63年(1988) 昭和の最後の年に大ブレイク 僕がオグリキャップの存在を知ったのは、(昭和最後の年の)1988年、高校3年生の頃です。 当時僕が住んでいた福島市には大きな競馬場がありました。それゆえ競馬というものに対しては、もともとかなり馴染みある環境だったのです。 そしてもう時効でしょうから正直に告白すれば、当時、 同級生たちは 高校生でありながら実際に馬券を購入していた のです。 周囲の そんな環境に加えて、その頃に好んで聴いていた(熱烈な競馬ファンである)明石家さんまさんのラジオ番組の影響もありまして、そのうち僕も仲間とともに、G1レースの予想をするようになっていったのです。いわゆる「予想専」ですね。 その頃、今回の主役のオグリキャップは、最強馬の称号を得るために、超ハイペースでぐんぐん成り上がっていっておりました。 地方競馬出身でありながら中央競馬において記録的に勝ちまくるオグリキャップに対して、田舎で悶々としていた僕は、何とも言えないシンパシーを感じていったわけです。 平成元年(1989) 『アイドルフォース』全盛期 翌1989年、僕は予備校に通うために上京しました。そして平成元年でもあったその年は 、オグリキャップにとっての全盛期 となりました。 ライバルであったイナリワンやスーパークリークなども、その搭乗騎手を含めて実にキャラが立っておりました。彼等にオグリキャップを含めた3馬が「平成3強」と呼ばれるようになり、 競馬界全体が激しく熱く盛り上がっていったのです。そんなライバルたちとの激闘の中で、オグリキャップは 『アイドルホース』 としての地位をしっかりと確立していったのでした。 怪物&天才 『怪物』オグリキャップと『天才』武豊騎手により、平成元年の競馬ブームは、昭和の『ハイセイコーブーム』続く、第二次競馬ブームと称され、バブル絶頂期の経済力を背景に史上空前の売り上げを記録していきました。 そして 何より凄いと思ったのは女性ファンの動員 です。それまで競馬ファンというと「ハンチング帽&耳にエンピツ&競馬新聞の細身のおじさん」というイメージでしたが、オグリキャップ&武豊騎手の人気で、競馬場に多数の女性ファンが押し寄せたのです。

バブル時代のクリスマス【史上最高価格の聖なる夜】1989

バブル期のクリスマスというのは、今とは全く異なる様相を呈していました。バブル景気に浮かれた当時の日本人の舞い上がりっぷりというのは、もう説明のしようが無いほどの凄さでありました。特に平成元年、バブル絶頂期の「1989年のクリスマス」というのは、僕が知る限り、史上最高の盛り上がりだったと記憶しております。今日はそんな噺です。 当時の世相 冷戦の終結 1989年12月。歴史的な「マルタ会談」が行われ、冷戦が終了しました。そんなわけで人類が全面核戦争の恐怖から完全に逃れることが出来たのがこの時期だったのです。 それによりベルリンの壁が壊され、東側の国がどんどん倒れて行きました。ホーネッカーとかチャウシェスクと言った大物が失脚し、チャウシェスクなどは公開処刑されました。 僕はこの年の年末は 「冷戦の終結」だけではなく、日本における「戦後」というものが一区切りした のだなあと思っています。経済が冷戦を終結させたように、戦後復興は正に頂点に達し、株価は史上空前の最高値を記録しました。   そしてついに日本企業は、あの ロックフェラーセンターまで買収 してしまったのです。アメリカを経済力で打ち破り、敗戦の呪縛から解放され、それにより戦後が終了した証でもありました(でも結果的にそれは大間違いでしたが・・・)。 新天皇誕生日 1989年のクリスマスウィークエンド。12月23日は「平成の天皇(現上皇)の誕生日」でした。そしてその23日が土曜日で、翌クリスマスイブが日曜日だったのです。 当時は一般的には土曜日は休みではなかったので、平成初の天皇誕生日は、実に都合の良い誕生日となりました。クリスマスウィークエンドが、当時は滅多になかった連休になったのです。1989年のクリスマスムードは、ぐんぐんと上昇していきました。 クリスマス戒厳令 今の時代はクリスマスに相手がいなくても「クリぼっち」などと言って、自虐ギャグにしてしまえるのですが、 「恋愛至上主義」 だったバブル期 は、その焦りは全く異なっておりました。それは「もしクリスマスイブの夜に一人で居たら、ゲシュタポに連行されて強制収容所送りになるのでは?」というほどの強迫観念であったのであります。みんな正に命がけでクリスマスのパートナーを求めておりました。 当時の「恋愛マニュアル指南書」の二大巨頭「POPEYE」と「Hot・Dog PRESS

ブルーザー・ブロディ②【全日復帰と2つの海外不穏試合】1987‐1988

  1980年代に「世界最強のレスラー」と謳われた超獣ブルーザーブロディ。彼は1973年のデビューから1988年に非業の死を遂げるまで、本当に様々な伝説を生んだプロレスラーでした。今回は彼が全日本プロレスに復帰する前後に起こした『2つの海外不穏試合』の噺をしていきます。 「ブルーザー・ブロディ対レックス・ルガー」 当時のマット事情 1986年の暮れの来日ボイコット事件( 前回参照 )により、ブロディ選手と新日本プロレスは二度目の絶縁関係となってしまいます。そしてそれは二度と関係が修復される事はないであろう決定的なものでした。 翌1987年早々に、ブロディ選手はアメリカフロリダ地区のCWF(NWAフロリダ)にスポット参戦します。 当時の全米マットは、ニューヨークの大手プロレス団体WWF(現WWE)が、大手ケーブルテレビネットワークと手を組み「全米侵攻作戦」なる、大掛かりな企業買収を行っていました。 このCWFへの影響も甚大で、長らく同団体の長だったエディ・グラハム氏は、WWFとの企業戦争によるプレッシャーからアルコール依存症に陥り、ピストル自殺をしてしまいました。 急遽後を継いだ日系人のデューク・ケオムカ氏とヒロ・マツダ氏は、2年ほど団体経営を頑張りましたが、1987年の春をもってジムクロケットプロモーション(WWFへの対抗組織)に身売りする事が決まっていたのです。 当時の2人 そんな状況の中で行われたのがこの試合です。ブロディ選手の相手のレックス・ルガー選手は、デビュー2年目の28歳で、ヒロ・マツダ氏がCWFのエースにすべく手塩にかけて育て上げた選手でした。筋肉質でルックスも良く、関係者の間からは「次期世界チャンピオン」として、大いに期待される存在だったのです。 一方のブロディ選手はキャリア14年の40歳の頃であり、そろそろ引退後のビジョンを考えつつある時期でした。 それまでに大手の団体には所属せず、フリーランサーとして全米マットで暴れてきた彼でしたが、そんな彼にとって、WWFを中心とした全米マットの組織化の波というものは、活躍の場が狭まるという意味において、あまり有難いものではなかったのです。そして そんな状況でブロディ選手は高給テリトリーである日本マットを追放されたわけですから、内心は決して穏やかなものではなかったはずです。 金網デスマッチ 両者の対決はゲージマ

東京ローカルなもの【目頭が熱くなるCM編】1989

『ローカル』という言葉には『地方』のイメージが強くしみついているものですが、しかしながら1989年のバブル絶頂期に福島から上京した僕は 『東京にもローカルなものが結構あるんだなあ』 と、しょっちゅう思っていたものです。今日はそんなものたちの中から、東京ローカルCMについての噺です。 ヨドバシカメラ ♪まーるいみどりのやまてせん♪   という誰しもが知っているはずのCMソングですが、 福島時代には『強引に受信していたニッポン放送』のラジオCMでしか聴いたことのない幻のCMソングでした。そしてそれ故に、余計に「ヨドバシカメラ幻想」というものが自分の中で高まっていたのです。 そんなわけで本格的に上京した僕は、TVとビデオと冷蔵庫とトースターを買いに、さっそくヨドバシカメラに行きました(新宿のボロアパートなので徒歩10分で行けたというのが、今思えば恐ろしい話です)。 そして新宿西口と言えば超高層ビル街です。ですので   『新宿西口の駅の前に、どれほどデカいヨドバシビルが立っているのだろう』   と思っていた僕ですが、実際のヨドバシカメラの、そのあまりに小さく雑然とした店構えに「もしやこれだけ?」と、とてもがっかりしたことを覚えております。そもそも駅の前じゃないですしね。 当時は『写ルンです』が全盛期でありまして、一階のカメラ売り場に恐ろしいほどの人で溢れかえっておりました。 そして二階のTVビデオ売り場では、その時に再結成していた「サディスティック・ミカ・バンド」のプロモーション映像が延々と流れており、その中では桐島かれんが跳ね回っておりました。 まだまだビデオは高価な時代でしたが、とびぬけて安い品物が2つありまして、僕がどちらにしようかと悩んでいますと 「こっちは外国製(三星)だからこっちがいいよ」 と薦めてくれたのが「FUNAI」のビデオデッキでした。なんか時代というものをしみじみ感じますね。 直ぐに見たいので、ビデオとテレビ(14インチ)は持ち帰りにした僕は(ビル街をテレビの箱を担いで歩く18歳)、家でつないだTVにおいて、あの有名なヨドバシカメラのCMを、初めて動画で視たのでした。 新宿西口 ヨドバシカメラ 1989年 東京都ローカル そして当然、このCMのクオリティに「これはひどい」と、がっかりしたのでした。はい。 石丸電機   お次は秋葉原です。当然地元には秋葉

マイケル・ジャクソン【BAD】世界最高のプレッシャー 1987-1988

今日はマイケルジャクソンのアルバム『BAD』についての噺です。音楽史上最大に注目されたそのアルバムは、マイケルのキャリアの中でも特に重要なものとなる問題作でした。 マイケル・ジャクソンのニューアルバムの噂 歌手のマイケル・ジャクソンは1982年にモンスターアルバム「スリラー」を発表し、その世界規模のメガヒットと共に、 エンタメ史上最高のスーパースター へと一気に駆け上がって行きました。 世界のスーパースターとなったマイケルは、1984年のジャクソンズ・ビクトリーツアーの大成功を経てソロ歌手として完全独立します。翌1985年には「 USA for Africa)プロジェクトの中心人物として、彼はライオネルリッチーと共に「We Are The World」を制作し、そこに集結した並いる大物アーティストのなかで、別格の存在感を示しました。 さらに翌1986年には、あのディズニーランド内に、立体映画「キャプテンEO」という、マイケルを主役に配したアトラクションがオープンしたのです。 あの「夢の国」に個人のアトラクション出来てしまうわけですから、当時のマイケルのスーパースターぶりというものが、個人の域など遥かに超えた、空前絶後、最強最大のものだったとお分かりいただけるでしょう。 そしてこの「キャプテンEO」の劇中に、マイケルは自作の2曲の新曲を提供していたのです。それにより次第に マイケルのニューアルバムへの期待 が高まっていきました。 そして1987年になると彼がニューアルバムのレコーディングに入ったという情報が流れだしました。その後「ニューヨークでのショートフィルム撮影の様子」などが写真誌などで伝えられ、アルバムへの期待値はさらに高まっていったのです。 ニューアルバムが前作「スリラー」を超える期待をされるのは当然な状況だけに、それに挑む マイケルのプレッシャーは相当 だと想像されました。 それゆえ『マイケルの寝室には”100 million!”と殴り書きがされていた』なんていう、まことしやかな噂まで流れていたのです。その後もマイケルに関する情報はあふれ出し、整形からペットのバブルスに至るまで、彼の動向が伝えられない日はありませんでした。 先行シングルはPV無し ニューアルバムに先駆けて、7月に先行シングルの「キャント・ストップ・ラヴィン・ユー」が発表されました。それは 意