1980年代に「世界最強のレスラー」と謳われた超獣ブルーザーブロディ。彼は1973年のデビューから1988年に非業の死を遂げるまで、本当に様々な伝説を生んだプロレスラーでした。今回は彼が全日本プロレスに復帰する前後に起こした『2つの海外不穏試合』の噺をしていきます。
「ブルーザー・ブロディ対レックス・ルガー」
当時のマット事情
1986年の暮れの来日ボイコット事件(前回参照)により、ブロディ選手と新日本プロレスは二度目の絶縁関係となってしまいます。そしてそれは二度と関係が修復される事はないであろう決定的なものでした。
翌1987年早々に、ブロディ選手はアメリカフロリダ地区のCWF(NWAフロリダ)にスポット参戦します。当時の全米マットは、ニューヨークの大手プロレス団体WWF(現WWE)が、大手ケーブルテレビネットワークと手を組み「全米侵攻作戦」なる、大掛かりな企業買収を行っていました。
このCWFへの影響も甚大で、長らく同団体の長だったエディ・グラハム氏は、WWFとの企業戦争によるプレッシャーからアルコール依存症に陥り、ピストル自殺をしてしまいました。急遽後を継いだ日系人のデューク・ケオムカ氏とヒロ・マツダ氏は、2年ほど団体経営を頑張りましたが、1987年の春をもってジムクロケットプロモーション(WWFへの対抗組織)に身売りする事が決まっていたのです。
当時の2人
そんな状況の中で行われたのがこの試合です。ブロディ選手の相手のレックス・ルガー選手は、デビュー2年目の28歳で、ヒロ・マツダ氏がCWFのエースにすべく手塩にかけて育て上げた選手でした。筋肉質でルックスも良く、関係者の間からは「次期世界チャンピオン」として、大いに期待される存在だったのです。一方のブロディ選手はキャリア14年の40歳の頃であり、そろそろ引退後のビジョンを考えつつある時期でした。
それまでに大手の団体には所属せず、フリーランサーとして全米マットで暴れてきた彼でしたが、そんな彼にとって、WWFを中心とした全米マットの組織化の波というものは、活躍の場が狭まるという意味において、あまり有難いものではなかったのです。そしてそんな状況でブロディ選手は高給テリトリーである日本マットを追放されたわけですから、内心は決して穏やかなものではなかったはずです。
金網デスマッチ
両者の対決はゲージマッチという方式で行われることになりました。これはリングをフェンスで囲んで選手が逃げられないようにして試合を行うというものでした。期待の新星と大物レスラーがそんな試合をするわけですから、この試合が興行の目玉になった事は言うまでもない事でしょう。しかしながら…、大きな期待の中で行われたこの試合は、何とも奇妙な不穏試合になってしまったのです。
不思議な試合
実際の試合の動画です。開始からしばらくは違和感なく「プロレスの試合」が行われて行きますが、試合のあるところから、突然、ブロディ選手がセル(プロレス用語で『技に対するリアクションのこと』)をしなくなるのです。
Luger vs Bruiser Brody Cage Match Shoot
打っても響かぬ相手に、まだまだ新人の域を超えていないルガー選手は困惑の様子を隠せません。
試合そのものはギリギリに成立しているものの、ブロディ選手のノラリクラリしたやる気のない様子は変わりません。
最終的に困り果てたルガー選手はレフェリーに手を挙げ、自ら反則負けを選択し、金網から逃げるように去って行きました。そしてそのままシャワーも浴びず会場を後にしたのです。
一方、ブロディ選手の方はリングに留まっておりましたが、その他人事のような様子は最後まで変わりませんでした。
ルガー選手の証言
「自分にはシュートの技術もないから何か悪い事をしたら謝るだけだし、そもそもブロディのような大男のタフガイに自分から仕掛けたりはしない。あの時のブロディは無表情なままバンテージに仕込んだカミソリ(流血試合をセルフで演出するためのもので、普通は自分の額を少しカットするために使う)を見せつけたりした。最後はベテランのレフェリーに助けてもらって試合から逃げ出すことができた」
ルガー選手への制裁説は間違い
この試合を最後にルガー選手がジムクロケットプロモーションに移籍したため、一部で「移籍に腹を立てたCWFの幹部がブロディ選手に制裁を依頼した」という説が流れておりますが、それは全くの間違いでです。
そもそもCWF自体が、このすぐ後にジムクロケットプロモーションに買収されるのです。主なフロントもそのままスライドしましたので、それゆえ、看板選手となるルガー選手の商品価値を落とすなんて事を、フロントが考えるわけがないのです。
そして前述の通り、このルガー選手にプロレスの手ほどきをしたのは、CWFの代表格だったヒロ・マツダさんでした。ルガー選手がいまだにマツダさんに対して深い尊敬の念を持っていることからも『フロントの制裁説』がデマであることがわかるでしょう。
それに、そもそもプロモーター嫌いのブロディ選手が、プロモーターの為にあぶない橋を渡るわけがありません。プロレスにおいて制裁試合を担当するのは、ブロディのような大物ではなく、フッカーと呼ばれる団体子飼いの腕自慢である場合が常なのです。
ブロディ選手のやる気がなくなった
僕はもともとこの試合の結末は「レフェリー誤爆によるブロディの反則負け決着」だったと思っています。それがどうしてこんな試合になってしまったのかと考えるに、僕はブロディ選手が、この試合の途中から「真面目にプロレスをする」気持ちを喪失してしまったのだと思っています。では以下理由についてです。
・フェンスの固い部分にブロディ選手の顔が当たった
試合途中でルガー選手がブロディ選手を金網に打ち据えるシーンがあるのですが、そこでルガー選手は誤ってブロディ選手の顔をフェンスの硬い部分に当ててしまうのです(ルガー選手本人は気がついていない)。これ以降、ブロディ選手のファイトが不貞腐れたもののようになって行きますので、僕はこの試合が不穏試合になった主要因はこれだと思っています。
・ルガー選手が青二才過ぎた
フェンス誤爆だけではなく、この映像を視る限り、当時のルガー選手はまだまだグリーンボーイの域を出ておらず、プロレスの定番の動きがちゃんとできていないように感じます。
ブロディ選手は自身のプロレスの型というものを極端に大事にするレスラーでしたから、たどたどしいルガー選手の動きに思わずプッツンしてしまったのでしょう。
・マット界再編などどうでもよかった
先ほども申し上げた通り、アメリカマット再編の動きというものは、フリーランサーのブロディ選手にとっては全く有難くないものでした。そしてその再編団体であるジムクロケットプロモーションから自分にお呼びがかからない状況では、これ以上、このCWFに対して義理立てをする必要はなかったのです。
そしてそんな状況下で、ブロディ選手自身が年齢的な衰えも実感していたわけです。だからこそプロレス新時代の申し子のようなルガー選手に相対して、やっかみにも似た感情を抱いてしまったのは、無理からぬところだったのかもしれません。
そんなわけで、この試合の結論は
「ルガー選手のしょっぱさにブロディ選手がやる気を喪失し、試合がグダグタになってしまった」
のだと思っています。
全日本プロレスに復帰へ
ブロディ選手の活躍の場が狭まる
ブロディ選手にとって、このルガー選手との試合は「潰れる団体での青二才とのどうでもよい試合」だったのかもしれないですが、しかしながら業界再編中の米マットにおいてはそうはいきませんでした。このブロディ選手の立ち振る舞いに対して「トラブルメーカー」という元からの悪評が、改めて大きく広まっていってしまったのです。それによりブロディ選手に対しての大手の団体からのオファーは、これ以後、全く無くなっていったのでした。
さらに米マットでブロディ選手が主戦場としていたダラスのWCWAマットは、主力選手だったエリック兄弟に不幸が続いた事により、急速に勢力を弱めておりました。
加えてWCWAは(ブロディ選手が永久追放になっている)新日本プロレスとの業務提携を強めていた時期であり、ブロディ選手にとっては、あまり居心地がいい場所とも言えなかったのです。
プエルトリコでブッチャーと全日復帰を画策
日本を含めた多くのテリトリーを失ったブロディ選手は、その活躍の場をプエルトリコマットに求めていきました。
当時のプエルトリコはプロレス熱が高く、同地の団体「WWC」には、日本を含めた世界中からプロレスラーが集まっておりました。そしてそれゆえに世界マットの情報がリアルタイムで集まっていたのです。
Abdullah The Butcher vs. Bruiser Brody in WWC - Wild Brawl 1
ブロディ選手はそこで、日本マットで全日本プロレスから新日本プロレスへの選手の大量移籍(長州軍団の新日リターン)があったことを知り、新日本プロレスで用済みとされていたブッチャー選手と共に、全日本プロレス復帰を画策していくようになります。彼等はWCWA代表のフリッツ・フォン・エリック氏と、全日本プロレスのブッカー(現場責任者)であるカブキ選手に仲介役を依頼します。
馬場選手の心変わり
これまでブロディ選手の復帰の希望を「一度裏切ったものを使うほど馬鹿じゃない」と無下に断ってきた馬場選手でしたが、ここにきて少々事情が変わってきておりました。
この時期、馬場選手は全日本プロレスの社長に復帰したのですが、その際に、実質的な親会社である日本テレビから「独立採算」を厳命されてしまったのです。それは最後通牒的な厳しい響きを持つものでした。
そこで馬場選手の頭に浮かんだのがブッチャー選手とブロディ選手でした。馬場選手はブッチャー選手の集客力と、ブロディ選手の商品価値を高く評価しておりました。
そうです、ブロディ選手は新日本プロレス時代に、猪木選手相手に星を落とさなかったのがここで効いたわけです。
そのような動きの中で、あの長州軍団の新日Uターンにより、全日本プロレスと新日本プロレスとの間で取り交わしていた「選手の引き抜き協定」が事実上無効になりました。
それによりブロディ獲得に関して、新日本プロレスとの契約面での問題がないと判断した馬場選手は、ブロディ選手とのパイプのあるカブキ選手に、復帰工作のGOサインを出します。このようにしてブロディ選手の全日本プロレス復帰が秘かに決まったのでした。
全日復帰とブロディ選手の変化
ブロディ選手はデビュー直後、全米の大物プロモーターであるビルワット氏から不当な扱いを受けており、それ以後はプロモーターというものを毛嫌いするようになっていました。そしてそれは社長レスラーである馬場選手や猪木選手に対しても同様だったのです。
しかしこの時、馬場選手が復帰を許してくれたことは、ブロディ選手にとって本当にうれしいことでした。彼は「馬場を裏切ったことは人生最大のミステイクだった。馬場には本当に申し訳ないことをした」と素直な心情をインタビューで語り、馬場選手に忠誠を誓った以後は、まるで別人のように扱いやすい人間になっていたそうです。
また仲介役をしてくれたカブキ選手にも絶大な信頼を寄せ、こと全日本マットにおいてはマッチメイクに対する不満など全く口にしなくなったそうです。
馬場の冷徹な計算
ブロディ選手は1987年10月に全日本のプロレスの大会に乱入し「日本人対決はもう要らない。これからは天龍革命では無くブロディ革命だ!」と、正式に全日マット復帰を宣言します。
そして翌シリーズの『世界最強タッグリーグ戦』に『ブロディ、スヌーカ組』が出場することが発表されます。そこには元相棒のスタン・ハンセン選手もテリー・ゴディ選手とのコンビで参戦することが決まっておりましたので、ブロディ選手の復帰早々に、タッグながらも『夢の超獣対決』が実現することとなりました。
「石橋をたたいても渡らない」という、これまでの馬場選手からは考えられないようなマッチメイクでしたが、そこには「ブロディの商品価値はそんなに長くない」という馬場選手の冷徹な計算があったとされています。
実際、ブロディ選手の髪には白いものが目立ち始め、インタビュー中に「私が引退して、私と似たような選手がチェーンを振り回したら、みんなすぐに私の事を忘れてしまうよ」などと答えたりするなど、特に気力面の落ち込みが見られておりました。
しかしながら、そんな水面下の動きをよそに、リング上のブロディ選手は、旧知の仲間たちと共に、熱い闘いを見せていきました。そして後楽園ホールで遂に実現したハンセン選手とのタッグ対決も大熱戦となり、それはそのまま次回来日時の「シングルプレイヤー」としてのブロディ選手への期待と変わっていったのです。
「ブルーザー・ブロディ 、ロッキー・ジョンソン対ケンドー・ナガサキ、ミスター・ポーゴ」
日本のマスコミ
1988年1月、ブロディ選手はプエルトリコの「WWC」に参戦しました。その時、WWCにはブロディ選手だけではなく、全日本プロレス復帰がアナウンスされたブッチャー選手や、新日本プロレスの期待の若手の武藤敬司選手がおりました。
このように何とも話題性のあるメンツが揃っていただけに、日本のプロレス誌「ゴング」のカメラマンも帯同し会場入りしたのですが、これに対してブロディ選手は明らかにナーバスになっていたそうです。
タフガイ「ナガサキ」
ブロディ選手がナーバスになったのは、相手チームにケンドー・ナガサキ選手がいた事でした。実はナガサキ選手は「裏の実力者」として、レスラー間で一目置かれる存在だったのです。ブロディ選手は新日本のシリーズでもナガサキ選手と闘った経験がありましたから、その事はよく分かっていたのです。
そしてナガサキ選手はこの時点ではまだ新日本の契約選手でした。それによりブロディ選手は「ナガサキは新日本の回し者なのではないのか?」「カメラマンもグルで自分が劣勢な写真を撮るつもりなのでは?」と、疑心暗鬼に陥っていきました。
実際の試合
そんなわけで実際の試合です。
Mr. Pogo + Kendo Nagasaki vs. Bruiser Brody + Rocky Johnson-Puerto Rico 1988
動画を見て頂ければわかるのですが、この試合は「不穏試合」と評されるほど、取り立てて危険な攻撃や約束違反があるわけでもないのです。
なぜ不穏試合なのか?
では何が問題なのか?それはブロディ選手が、この試合において、WWCのプロモーターのカルロス・コロン選手や、現場責任者のホセ・ゴンザレス選手から出された「日本人ヒールをオーバー(売り出し)させてやってくれ」という依頼を無視したからなのです。
これは本来であるならば、ブロディ選手がもっとナガサキ、ポーゴ組の攻撃を受けてあげて、そしてもっともっと彼等の良いところ(ヒールだから悪いところ)を引き出してあげたうえで、最後に竹刀を奪い取り反撃するべきだったのです。
カルロス・コロン選手とホセ・ゴンザレス選手はブロディ選手に
「あのジャップコンビ(ナガサキ、ポーゴ)をここまで売り出すのにどれほど苦労したと思っているんだ!お前はそれをたった3分で台無しにしやがった!」
と激怒しましたが、それに対してブロディ選手は
「日本のカメラマンが来ているから俺がやられているところを見せるわけにはいかない!それがオールジャパンのスタイルなんだ!」
と言い返したそうです。こんなことを言われてしまってはWWCの二人もたまったものではありませんよね。このエピソードは全日本に対するブロディ選手の忠誠ぶりと、その反面、軽視する団体に対しての、彼の相変わらずのトラブルメイカーぶりを表すものだと強く感じます。
三冠統一合戦
ブロディ選手は1988年春の全日本プロレスのシリーズにシングルプレーヤーとして参戦します。当時の全日本プロレスは『ボクシングのマイク・タイソン選手の三団体統一』をヒントに、トップレスラー4人(鶴田、天龍、ハンセン、ブロディ)による「三冠統一合戦」というものを闘いのメインに据えておりました。
これまでは『絶対に星は譲らない』というブロディ選手がいる以上、こういう試合は出来なかったのですが、すっかり従順になっていたブロディ選手は、相手が鶴田選手クラスならば、ピンフォールによる敗北すらも受け入れるようになっていたのです。
涙のインター戴冠
1988年3月、ブロディ選手は鶴田選手のインターナショナルヘビー級選手権に挑戦し、キングコングニ―ドロップでフォール勝ちし、タイトルを5年ぶりに奪還します。
【インター戦・ブロディ涙の奪取】ジャンボ鶴田vsブルーザー・ブロディ 88'March, Jumbo Tsuruta vs Bruiser Brody
驚くことにブロディ選手は試合後に喜びの涙を見せ、表彰式では日テレのお偉いさんに抱きつき、最後には観客と抱き合いながら去っていったのです。
ブロディ選手はこれまで日本マットにおいて、徹底して超獣ギミックを貫いており、それを崩すことがなかったのです。それが試合に勝って感涙にむせぶという、実にベビーフェイス的な行動を見せたのは本当に驚きの事でした。
実況をしていた若林アナはそんなブロディ選手のらしくない姿に動揺しておりましたが、この試合の解説をしていた馬場選手は「ブロディは長い事、日本で空白がありましたから、必死でタイトルを獲ることを考えていたのでしょう」と軽く流していました。
7年ぶりのフォール負け
翌月、鶴田選手とのリターンマッチにおいて、ブロディ選手は鶴田選手のバックドロップの前にピンフォール負けを喫し王座を失います。7年ぶりのフォール負けです。前回の涙もそうでしたが、ブロディ選手がこんなにあっさりとピンフォール負けを受け入れたことに、これまでのブロディ選手を知る人たちは非常に驚きました。
ブロディ選手はこの来日時のインタビューにおいて、引退後のことを語ることが多くなっていたそうです。マット内の話題をよそに「将来は学校経営をしたい」と語るブロディ選手。
そんなブロディ選手の変化に対して馬場選手は
「あいつは裏切るぐらいギラギラしていた時の方が商品価値が高い。改心して帰ってきたらファイト内容がおとなしくなった。人間としては使いやすくなったけど、商品価値としては問題だな」
と、ブレーンとの会合の場で語り、ある決意を固めたのでした。
つづく
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