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1月, 2021の投稿を表示しています

ロベルト・バッジョのワールドカップ【サッカーW杯 アメリカ大会 】1994

今日は1994年のサッカーワールドカップ アメリカ大会についての噺です。 この大会はワールドカップ初出場を目前にしたサッカー日本代表チームが、予選の最終戦のロスタイムに同点弾をイラクに決められ、土壇場で出場を逃した「 ドーハの悲劇」でも有名ですね。   地区予選アラカルト ドーハの悲劇  W杯アメリカ大会の地区予選があった1993年は、日本でJリーグが発足した年で、日本国内のサッカー熱が爆発的に盛り上がっている時期でした。 Jリーグ開幕時には、かの「皇帝」ベッケンバウアー氏が来日しました。要は世界のビッグネームに開幕戦に招いて、この新リーグの権威付けをしようとしたのです。まあ良くあることですね。 しかしベッケンバウアー氏はガチでした。氏は 「日本のサッカーが欧州並みになるまでどのくらいかかりますか?」と来日会見でマスコミから問われ「50年」と素で答えてしまった のです…まさに忖度なしのガチンコ発言です。 Jリーグ発進に浮かれるその場の空気は、「皇帝」のその言葉を聞いてすっかり凍ってしまいました。 そうです。『やっぱり世界とはそんなに差があるのだな』と思い知らされたわけです。 そしてそのベッケンバウアー氏のその言葉を、それこそ国民レヴェルで痛感したのが「ドーハの悲劇」でありました。 日本は勝てばW杯初出場という最終イラク戦で、終了間際のロスタイムに同点ゴールを決められ、ほとんど手中にしていたワールドカップの初出場権を逸してしまったのです。 僕はこの時、皇帝の50年発言を思い出しまして、「このわずかな時間を守り切れないところこそが、半世紀の差なんだろうな」としみじみ思ったものでした。はい。 今にして思えば「リーグ開幕の年にW杯初出場を決める」なんてのは、日本の身の丈に合わない、実に虫が良すぎる話だったのかもしれませんね。 パリの悲劇 この大会の予選で、日本以上の悲劇に見舞われたのはヨーロッパの強豪フランスでした。フランスは(アメリカ大会の次の)ワールドカップの自国開催が決まっており、フランス国民のサッカー熱は本当に高まっていたのです。 そんなわけでフランスにとって、このアメリカ大会への出場は至上命題だったのですが…強豪国がひしめくヨーロッパの予選は、そんなに甘いものではありませんでした。 フランスはブルガリアとスウェーデン(両チームとも本大会ベスト4に進出した超強豪)と

カップヌードルの1980年代①【新たな定番商品を求めて】新商品編

2021年。発売から半世紀となった日清カップヌードルは「カップめんのオリジン」 として、50年もの長きに渡り高い人気を誇っております。 そんなカップヌードルの「1980年代」。それはレギュラーの「しょうゆ」「カレー」に続く「第3の定番」を求めた新商品開発が盛んな時代でした。今日はそんな噺です。 1970年代は定番2品の時代(プラス1) 1971年カップヌードル(しょうゆ) 世界初の「即席カップめん」であり、別名「レギュラー」とも呼ばれる オリジナルカップヌードル です。発売以降、50年もの長きに渡り、基本的な味もパッケージデザインもほぼ変わっていない超定番商品となっています。 1972年天そば 「しょうゆ」の翌年に発売された世界初の和風カップめん。しかし後発の東洋水産「赤いキツネ」と「緑のたぬき」の大ヒットに駆逐され販売終了に追い込まれてしまいました(その後、日清の和風カップめんは、1976年に発売された「どん兵衛シリーズ」にて展開されていきます)。 そんな黒歴史を持つ商品ですが、 2 011年に行われたカップヌードル復活総選挙で、まさかの一位を獲得 したのです(背景に伊集院光さんの猛プッシュがあったとのこと)。しかしながら実際に復刻発売されると、その味は「微妙」との声が多数であったりしました。それゆえに今後、2度目の復活はないと思われる商品です。 1973年カレー コッテリとした食べ応えのある商品で、「しょうゆ」に続いてレギュラー製品として定着しきました。その後、 70年代のカップヌードルは「しょうゆ」と「カレー」の2大看板制で商品展開していく ことになりました。 1980年代は第3の定番争い 1980年代に入ると、 「しょうゆ」「カレー」に続く「第3の定番」を求めて、1カップヌードルは毎年のように新商品を発売していくことになります。 1981年チキンヌードル スープに鶏コンソメ味を採用した「さっぱり味」のヌードルです。しかし「しょうゆ」との差異化が今一つ図れず、3年ほどでラインナップから外れてしまいました。 CMには浪曲師の 広沢瓢右衛門 さんを起用。しかし、当時を振り返っても、一般的な認知度が特に高い人というわけでもなく、謎と言えば謎な人選であります。 1982年チリトマトヌードル 独自の幅広麺を採用した酸味の効いた商品。チキンヌードルの反省からか、オリジナリ

鈴木保奈美【東京ラブストーリー】バブル末期の等身大の恋愛ドラマ 1991

 東京ラブストーリーは柴門ふみの同名漫画を原作としたフジテレビ系列で1991年初頭からオンエアされたドラマで、小田和正が手掛けた主題歌「ラブ・ストーリーは突然に」とともに社会現象的なブームを巻き起こしました。今日はそんな話です。 「東京ラブストーリー」とは? 放送日時ほか 「東京ラブストーリー」は、1991年1月7日~3月18日、フジテレビ系の「月9」で放送されていた恋愛ドラマです。主演は鈴木保奈美&織田裕二で、他に有森也実や江口洋介や千堂あきほといった当時の人気俳優が、主演者とほぼ並ぶ形で脇を固めていました。 あらすじ 上京してスポーツ用品メーカーに中途採用された永尾完治は、そこで自由気ままにポジティブに生きる赤名リカと出会う。完治はリカと恋仲になっていくが、その後、同郷で先に上京していた医大生の三上健一、高校時代の憧れであった関口里美と再会したことから、彼等を取り巻く恋模様というものは、各々の周囲も巻き込むかたちで、とても複雑なものとなっていった。 成功が約束された作品 柴門ふみブーム ドラマ「東京ラブストーリー」は、半ば初めから成功が約束されていたものでありました。というのも、当時、バブル期の世の中では、原作者の 「柴門ふみブーム」 が巻き起こっており、前々年の1989年に放送されたドラマ「同・級・生」も、「柴門ふみ原作」の名のもと、高視聴率を獲得していたのです。それゆえ「同・級・生」よりも、ドラマとの親和性が高いと言われていた 「東京ラブストーリー」はドラマ化の実現の可否も含めて大いに注目を浴びていた のでした。 プロデュ―サー大多亮 「東京ラブストーリー」のプロデューサーは大多亮氏が務めました。1980年代後半からトレンディドラマで名を上げていた大多氏でしたが、1990年夏にトレンディドラマの決定版として、フジテレビが総力を上げて制作した「恋のパラダイス」というドラマが、期待に反して色良い結果を残せなかったのです。 「恋のパラダイス」の失敗により大きな挫折を味わった大多氏は、自らのプロデュース作品を 「憧れのトレンディドラマ」から「等身大の純愛路線ドラマ」へ と大きく舵を切りました。 そして1990年の秋ドラマにおいて、中山美穂主演の純愛ドラマ「すてきな片想い」をプロデュースします。するとこのドラマは平均視聴率20%超えのヒット作となったのです。これにより