伝説の最強プロレスラー『ブルーザー・ブロディ』に関する噺の最終回です。今日は彼の死について、その謎を紐解いていきます。
扱い易くなったトラブルメーカー
念願である全日本プロレスへの復帰が叶ったブロディは、それまでのトラブルメーカーぶりが嘘のように、とても扱い易い男になっておりました。この態度の変化はプロモーターである馬場選手に対してだけでは無く、復帰にあたって尽力してくれたカブキ選手に対しても同様で、その信頼は絶大なものになっておりました。
カブキ選手は当時、全日本プロレスのブッカー(プロレスのストーリーや勝敗を決める現場責任者)を担当しておりました。それゆえ、そのストーリーライティング的にも、このブロディ選手の改心というものは、かなり好都合なものだったのです。
賞味期限
プロモーターとしての馬場選手は、このブロディ選手の変化というものを、ただ単に好意的に捉えただけではありませんでした。馬場選手はすっかり落ち着いてしまったブロディ選手に、ファイターとしての衰えを感じ取っていたのです。そして「ブロディの商品価値はもうそれほど長くない。ライバル団体の新日本相手に、無敗で帰ってきたブロディのプライオリティが落ちないうちに、ビッグカードをどんどん切っていこう」と密かに考えていたのでした。
実際、ブロディ選手は既に40歳を超えていました。頭髪や髭には白いものが目立ち、外見にも衰えはハッキリと現れておりました。実際、実年齢においても、彼はライバルであるハンセン選手、鶴田選手、天龍選手よりも3~5歳年長だったのです。
そんなブロディ選手に対して、40歳を超えてからの肉体的な辛さというものを、自身も骨身に染みて感じてきた馬場選手が、ここで策を急ぐというのは、ある意味当然のことでもあったのです。
ファン投票で超獣対決実現へ
全日本プロレスは1988年8月29日の日本武道館大会を「オールスターサマーナイトウォーズ」と題し、「カードはファン投票にて決定」すると発表しました。当然のことながら『ブロディ対ハンセン』という夢の初対決が投票一位になると予想されましたので、プロレス業界は大騒ぎになりました。
当時、ライバル団体の新日本プロレスは「猪木選手の引退問題」で揺れておりました。それに対し全日本は「超獣対決」という超ビッグカードで、カウンターパンチを当てようとしていたのです。
また馬場選手の頭の中には、この「超獣シングル対決」のみならず、その後、さらなるビッグカードとして、世界最強タッグにおいての「鶴田、ブロディvs天龍、ハンセン」という、夢のタッグ対決の構想もあったと言われています。
しかし…
皆さんご存知の通り、それらは全て幻と終わってしまいました。
プエルトリコマットでの客死
プエルトリコでは変わらなかった態度
実はブロディ選手が改心したのは全日本マットにおいてのみでした。ブロディ選手は春の全日本のシリーズにフル参戦したのち、続いてプエルトリコのWWCマットへ参戦するのですが、そこでのブロディ選手のワガママぶりは、これまでと変わらないどころか、全日本復帰という後ろ盾ができてしまったために、より酷いものになっていったのです(その②参照)。
ブロディ選手はプロモーターのカルロス・コロン選手と「ギャラとプエルトリコの税金の支払い」で揉め、さらにはブッカーのホセ・ゴンザレス選手とは、その唯我独尊なファイテングマナーについて衝突していきました。
7月17日の悲劇
そして運命の日となった1988年7月16日。ブロディ選手はダニー・スパイビー選手との試合前に、ホセ・ゴンザレス選手にシャワールームに呼び出されます。ブロディ選手はそこでホセ選手に鋭利な刃物で腹部を3回刺され、その後、搬送された病院にて、日を跨いだ7月17日に出血多量で亡くなりました。
そのニュースはロイター経由で日本にも伝えられ、大手新聞社が記事とするなど、大きな衝撃を持って伝えられました。
「世界最強のプロレスラーであるブルーザー・ブロディ (本名フランク・ゴーイッシュさん)がプエルトリコで刺され死亡した」
ブロディ選手の刺殺犯となったホセ選手は、犯行日の16日と17日に試合をこなしたのち、18日になって、ようやく弁護士とともに警察署に出頭し、そこで殺人容疑で逮捕されました。彼は1000万円の保釈金で仮釈放された後、裁判において正当防衛の主張が全面的に認められ無罪となりました。
「ブロディ刺殺犯ホセ・ゴンザレスが正当防衛で無罪となった」
その事は驚きをもって日本でも受け止められました。
トニーアトラス選手の証言
「カルロスやホセと会場入りするはずだったブロディが、レストランで置いてけぼりを食らっていたので、自分たちの車に乗せて会場入りした」
「会場に着くとカルロスとホセとビクター(のちのIWA主宰のビクター・キニョネス)が深刻な様子で話をしていた。俺が控室で暇つぶしに絵を描いていると、ブロディが息子の写真を持ち出してきて『息子の似顔絵を描いてくれ』と頼んできたので、描いてやると、とても喜んでいた」
「そこにホセが来てブロディに『話があるから来てくれ』といい、ブロディと一緒にシャワールームに消えていった。その時、ホセはタオルに包んだ何かを持っていた」
「シャワールームから悲鳴が聞こえたので駆け付けると、ホセが前かがみになったブロディの髪をつかみ、首をナイフで切りつけようとしていた。俺がとっさにブロディの体を引き寄せるとナイフは空を切り、ブロディの髪だけが斬り落とされた。カルロスがホセに飛び掛かりやつを壁に押し付けナイフを取り上げた」
「ブロディは腹を切られて血が流れていた。傷は深く腸が出ているほどだった。ブロディは俺に『誰も近づけないでくれ』と頼んだので、俺は『誰も来るな!』と叫んだ」
「カルロスがやってきたので『来るな!』と俺が叫ぶと、ブロディは『カルロスを呼んでくれ』と言った。そして近づいてきたカルロスにブロディは『俺の家族を頼む』と言った。カルロスは『わかった』と答えた」
「救急車はなかなか来なかった。40分くらいかかってようやく来た救急車に一緒に乗り込み病院に行ったが、そこでもなかなか治療してくれない。最後は俺が医者を捕まえて強引に治療させた」
「会場に戻ると何事もなく試合が行われていてぞっとした。試合後、外国人選手みんなで話し合って、一刻も早くプエルトリコを出国することになった」
「その後、ホセを無罪とした裁判が終わるまで、一部始終を目撃していた俺が法廷に呼び出されることはなかった」
殺されるに至った様々な説
ギャラのトラブル説
ブロディ選手とWWCのフロントとの間には、プエルトリコの税金に対する解釈の違い(内税、外税的なもの)によるトラブルがありました。
しかしそれによるブロディ選手からの怨念があるとするならば、それは団体経営者であるカルロス・コロン選手に対して向けられるべきものです。ですのでホセ選手がそこに深く関与していたとは思えません。そしてブロディ選手とコロン選手に関しては(事件時の状況を見る限りでも)それなりに関係は良好だったと捉えるべきであり、よって、この金銭トラブルと言うものは、少なくともブロディ殺害の主因でないと考えられます。
経営権の乗っ取り防止説
プロレスのドキュメンタリー番組である「ダークサイド・オブ・プロレスリング」によって取り上げられた新説で『ブロディはWWCの株を買い占めることにより団体の乗っ取りを企んでいた。それにより職を追われると激怒したホセが犯行に及んだ』というものです。しかしながら、実際にはホセ選手は、プエルトリコの別団体IWAへの参画を考え始めた時期でありまして、WWCに対する執着心はあまりなかったように感じられるのです。
さらにブロディ選手自身も、引退後は自身のトラブルが絶えなかったプロレスの世界に関わるよりも、幼児保育施設の経営などをする事を具体的に頭に描いていた節があります。
以上のことを見ても、ブロディ選手とフロントの間に、WWCの経営権を争うような大きないざこざがあったとは考えにくく、ましてやそれがホセ選手の犯行の主因になったとは、とても思えないのです。
ホセの私怨説
ブロディ選手が体の小さな選手(Jr.ヘビー、メキシカン、プエルトリカン)を差別していたというのは事実であり、これまでもそれを起因とした様々なトラブルがありました。しかしながら、それが殺害の原因であるという話(「試合においてコケにされてホセはブロディを恨んでいた」など)に関しては、ホセ選手本人がインタビューにおいて明確に否定しております。
ちなみにホセ選手は、事件前にも、自身のホームパーティーにブロディ選手を招いており、そこで家族とともに、とても友好的なひと時を過ごしたそうです。ですので「ホセ選手が前々から恨みを募らせていた」という説には、素直に頷けないものがあります。
では、ブロディ選手がホセ選手に刺された本当の理由とはなんなのでしょうか?
ホセ選手の証言
ホセ選手の証言をまとめてみます。
「差別的な事は確かにあったが、それはこの世界では珍しい事ではない」
「ブロディを呼び出したのはブッカーとしての業務連絡をするためだった」
「彼は一度言い出したことは曲げない男だった。それゆえ難しい話になることが解っていたので気が重かった」
「とにかく正当防衛だったとしか言えない」
このように、ホセ選手は裁判において一貫して正当防衛を主張し(黙秘というのは誤報)、主だった証言者も出廷しなかったことから、最終的に無罪となりました。
ブロディはタフガイだと恐れられていた
プロレスファンの間では「誰がガチで一番強いのか?」というのは永遠のテーマのように語られていますが、実はそれはレスラーも一緒なのです。
しかも海外のレスラーというのは、我々の予想以上に噂話が好きでありまして、例えばSWSマットで行われた「北尾VSテンタ」の不穏試合なども、海外において大きな話題となったのです。そしてその話には尾ひれがつきまくり、最終的には「日本でスモウレスラー相手に凄いシュートマッチを行った」と、テンタ選手は米マットにおいて一目置かれるようになったりしたのですね。
そんな武勇伝的な噂が渦巻く世界の中で、このブルーザー・ブロディという選手は、それまでの様々な伝説により「いざとなったらシュートも辞さないタフガイ」として、レスラー間で大いに恐れられていたのでした。
特にこの時期は「シューター集団である新日本プロレスとのトラブル」や「レックス・ルガー選手との不穏試合」が現地でも大いに話題になっていた時期でした。さらには興奮剤などの薬物依存も噂され、特にハワイマットで日本人マスコミを全裸で追いかけ暴行を加えたという話は『ブロディ=コントロール不能の荒くれもの』というイメージを、プロレス関係者の間に強烈に浸み込ませていたのでした。「ブロディは粗暴なので、周囲から武器を持っていけと言われた」
「生か死かの選択を迫られた。あれはセルフディフェンスだったとしか言いようがないんだ」
原因はブロディのジョブ拒否
人間性の問題
「亡くなった人間にこんなことを言うのは酷いかもしれないが、あのブルーザー・ブロディが殺されたと聞いて、私は何も不思議に思わなかった」
そう言ったのは新日時代に散々ブロディのワガママに振り回されたミスター高橋氏です。そしてこの「希代のトラブルメーカーが遂にブッカーの逆鱗に触れて命まで落とした」というブロディ選手に対する辛辣な意見は、この高橋氏だけではなく、業界中から溢れ出ておりました。そんなわけでブロディ選手が命を落とした主因として、彼の人間性を挙げないわけにはいかないと思います。
あの日に起こったこと
ダニー・スパイビーのオーバー案
あの日、ブロディ選手はダニー・スパイビー選手とシングルマッチをする予定でした。スパイビー選手は身長2mを超える大型選手でしたが、大手のWWFマットではパッとせず、その年に契約解除されたばかりだったのです。
WWCはそんな彼と契約し、超大型ヒール(悪役)レスラーとして売り出そうとしていました。それゆえベビーフェイス(善玉)のトップであるブロディ選手に、ブッカーであるホセ選手はジョブ(大袈裟にやられたフリをしてスパイビー選手の強さを印象付ける)を依頼しました。ブロディのジョブ拒否
しかしブロディ選手はそれを拒否します。それはナガサキ、ポーゴ組に対しての不穏試合と同様の独自のプロレス哲学からくるものであり(詳しくは②参照)、言い換えれば「自分の価値を少しも下げたくない」という徹底したエゴによるものでした。
さらに加えて、相手のスパイビー選手は、このWWCマットだけではなく、ブロディ選手のホームリングである全日本プロレスとも契約を交わしており、ブロディ選手と入れ替わるように既に全日本の5月のシリーズに参戦を果たしていたのです。この事に対するスパイビー選手への警戒心は、日本での評価を極端に気にするブロディ選手にとって、大変に大きなものになっていました。そして「ここで下手にスパイビーを持ち上げてしまっては、全日本の自分の評価に大きな影響を与えてしまう」と、余計に意固地になったのです。
興奮剤が仇に
なかなか折れないブロディ選手への説得は7月16日の試合当日にまで及びました。そしていかにトラブルメーカーとは言え、普段は大変物静かなブロディ選手でしたが、当時の彼は『試合時間に合わせて効くように興奮剤を服用するのが常になっていた』のです。
シャワールームでジョブの再依頼をされたブロディ選手は興奮剤の効果もあり激昂します。そして小柄なホセ選手に詰め寄りました。期せずしてブロディ選手の懐に入り込む形となったホセ選手は、目の前の脇腹を迷わず三度刺したのです(居合わせたミゼットレスラーの証言)。
思わぬ反撃にブロディ選手は悲鳴を上げ前屈みになります。そんなブロディ選手に対し、ホセ選手がとどめを刺そうとします。そして首を斬りつけるすんでのところで、騒ぎに気がついたトニー・アトラス選手とカルロス・コロン選手がシャワールームに飛び込んできました…
追悼興行
本来であれば「ブロディ対ハンセン」が行われるはずだった1988年8月29日の全日本プロレス武道館大会は「ブルーザー・ブロディ メモリアルナイト in 武道館」として、夢の対決から一転してブロディ選手の追悼興行となってしまいました。
ブロディ夫人のバーバラさんと長男ジェフリー君も来日し、超満員の日本のファンに対して感謝の意を表明しました。ブロディ選手は、その死により、日本のファンの中で永遠に神格化されていったのです。
B.ブロディ氏 追悼セレモニー(1988年8月29日 日本武道館)
その後のホセ選手
ブロディ選手の死から2年後、大仁田厚選手率いるFMWがホセ・ゴンザレス選手の招聘に動いたことがありました。これは大仁田選手と(ホセ選手の所属団体であるプエルトリコIWAに参加していた)ミスター・ポーゴ選手が共同で考え出したアングルでありまして、それは『はるばるプエルトリコIWAを訪ねた大仁田が、ブロディ刺殺犯であるホセ・ゴンザレスに腹部を刺される』という実に不謹慎極まりない内容のものでした。これに対して業界の重鎮だった竹内宏介氏は激怒し『もしホセ・ゴンザレスを来日させたら、今後、コング誌ではFMWを一切扱わない』と宣言します。それにファンも同調したことから、当初は大仁田のアングルを好意的(?)に伝えていた週刊プロレス誌も、完全に態度を変え『FMWは洋上マッチの大らかさを忘れたか?我々はホセ・ゴンザレスの来日に反対する』と紙面で訴えることとなったのです。大仁田は半ば強行的にそのアングルを継続させますが、最終的に『大仁田殺傷犯はホセ・ゴンザレス本人ではなく、その弟でした』という、実にしょうもないオチを付けて、日本のみならず世界中から批判されることになったのです。
これについてホセ・ゴンザレス選手は
「あの時は『このアングルを受け入れればまた日本マットに参戦できる』と吹き込まれて、それを信じて加担してしまった。それにより私の日本での評価はさらに悪いものになってしまったし、今は大変後悔している」
と述べています。
そして僕はそれを読んで、なんだかブロディ選手が殺された理由と、さらにはホセ選手がマットに復帰できている理由が、全ての理屈を超えてスッと理解できたような気がしたのです。
どうしようもなく、これもプロレスなんだと。
ブロディ選手については、とりあえず以上です。
御拝読ありがとうございました。
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