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ロベルト・バッジョのワールドカップ【サッカーW杯 アメリカ大会 】1994

今日は1994年のサッカーワールドカップ アメリカ大会についての噺です。この大会はワールドカップ初出場を目前にしたサッカー日本代表チームが、予選の最終戦のロスタイムに同点弾をイラクに決められ、土壇場で出場を逃した「ドーハの悲劇」でも有名ですね。


 地区予選アラカルト


ドーハの悲劇

 W杯アメリカ大会の地区予選があった1993年は、日本でJリーグが発足した年で、日本国内のサッカー熱が爆発的に盛り上がっている時期でした。


Jリーグ開幕時には、かの「皇帝」ベッケンバウアー氏が来日しました。要は世界のビッグネームに開幕戦に招いて、この新リーグの権威付けをしようとしたのです。まあ良くあることですね。
しかしベッケンバウアー氏はガチでした。氏は「日本のサッカーが欧州並みになるまでどのくらいかかりますか?」と来日会見でマスコミから問われ「50年」と素で答えてしまったのです…まさに忖度なしのガチンコ発言です。
Jリーグ発進に浮かれるその場の空気は、「皇帝」のその言葉を聞いてすっかり凍ってしまいました。そうです。『やっぱり世界とはそんなに差があるのだな』と思い知らされたわけです。

そしてそのベッケンバウアー氏のその言葉を、それこそ国民レヴェルで痛感したのが「ドーハの悲劇」でありました。


日本は勝てばW杯初出場という最終イラク戦で、終了間際のロスタイムに同点ゴールを決められ、ほとんど手中にしていたワールドカップの初出場権を逸してしまったのです。
僕はこの時、皇帝の50年発言を思い出しまして、「このわずかな時間を守り切れないところこそが、半世紀の差なんだろうな」としみじみ思ったものでした。はい。今にして思えば「リーグ開幕の年にW杯初出場を決める」なんてのは、日本の身の丈に合わない、実に虫が良すぎる話だったのかもしれませんね。

パリの悲劇

この大会の予選で、日本以上の悲劇に見舞われたのはヨーロッパの強豪フランスでした。フランスは(アメリカ大会の次の)ワールドカップの自国開催が決まっており、フランス国民のサッカー熱は本当に高まっていたのです。
そんなわけでフランスにとって、このアメリカ大会への出場は至上命題だったのですが…強豪国がひしめくヨーロッパの予選は、そんなに甘いものではありませんでした。
フランスはブルガリアとスウェーデン(両チームとも本大会ベスト4に進出した超強豪)と予選同組となってしまい、最終ブルガリア戦で「引き分け以上」でなければ予選落ちという状況にまで追い込まれてしまいます。

そして決戦。

フランスは苦しみながらも試合を同点のまま凌ぎ続けます。このまま行けば本大会出場です。しかしロスタイムのラストプレーで、フランスはブルガリアに逆転シュートを許し(公式記録では89分59秒)、ワールドカップ出場を逃してしまったのでした。


そんなわけで本当に「ドーハの悲劇」によく似ているのですが、しかしながらフランスの場合、ホームゲームでの惨劇だったというのが、より強烈なのでした。出場選手はその家族ごと猛批判を浴び、この敗北はフランスに深いトラウマを残したのでした。

ブラジルとアルゼンチンも大ピンチ

当時はただでさえ高い南米チームのレヴェルが、さらに高くなっていた時期で、サッカー王国であるはずのブラジルとアルゼンチンが、なんと大陸予選敗退の危機に見舞われておりました。


ブラジルは監督の采配に対する不満により招集拒否していたロマーリオ選手(世界最高のプレイヤーの一人でありながら、超ワガママだったのでスタメンで起用されていなかった)に泣きを入れ、予選終盤から代表復帰してもらい、なんとか最終節でワールドカップ出場を決めることができたのです。 


そして同じく絶不調だったアルゼンチンに至っては、なんと南米予選そのものを通過することが出来なかったのです。それゆえ、こちらもレジェンドであるマラドーナ選手(サッカー史上最高の英雄だが、この時点では過去の人だった)を代表チームに急遽招聘し、最後の最後、オーストラリアとの大陸間プレーオフにおいて、何とか本大会の出場を決めたのでした。

そんなわけで、南米予選がこのような激戦だったことから「今回のワールドカップは南米勢のレヴェルが高い」と世界中に認識されておりました。あのペレにいたっては「コロンビアが優勝候補」と発言し、自国ブラジルチーム(セレソン)から大きな顰蹙を買っていたりしたのです。

アメリカ本大会


第15回ワールドカップアメリカ大会は、1994年の6月17日から7月17日にかけて、全米9都市で開催されました。

ブラジルとドイツ

予選では冴えなかったブラジルですが、開催国であるアメリカの認識では、あくまで「サッカー=ブラジル」なのでした。
それゆえプロモーション映像ではブラジルのロマーリオ選手が主役となっており、(前大会優勝国の)ドイツのマテウス選手と炎にまみれ互いに吠え合うという、なかなかかっこいいものになっていたのです。
実はW杯おいて「ブラジルとドイツの直接対決」は、ここまで一度もありませんでした(これはW杯七不思議のひとつでした)。ですので、この大会においての両者の初対決が世界中から期待されていたのです。

それが実際にどうなったのかと言いますと…それについてはまたあとでですね。

灼熱のワールドカップ

五輪の放送の場合『アメリカのゴールデンタイムに合わせて放送スケジュールが組まれる』というのが定例になっておりますが、このW杯では『サッカー人気の高いヨーロッパのゴールデンタイムに合わせて試合のスケジュールが組まれた』のです。


それにより試合はデーゲームが主となりました。運の悪いことに、この年は北アメリカ大陸に熱波が到来しておりました。それゆえアーリーサマーでありながら、ピッチ上は摂氏50度を超える灼熱地獄となっており、非常に厳しいコンディションの中での試合を、選手たちは強いられる事となったのでした。


アメリカはやはり凄い

開催地のアメリカは、サッカー不毛の地と言われるほどのアンチサッカー国だったのですが、実際には前大会(1990イタリア)に予選を突破して自力出場しているように、アメリカ代表チームはそこそこ強かったのです。

そして元来、祭り好きの国民性ですから、この時のワールドカップの盛り上がりは、事前の予想を超える相当なものになっており、ヤギのような風貌をしたアレクシー・ララス選手などが人気者となっていきました。


アメリカ代表は母国の後押しのもと、見事に予選を突破し、独立記念日に行われることとなった「決勝トーナメント一回戦 ブラジルVSアメリカ」に向けて、さらにムードが盛り上がっていったのでした。


そしてその盛り上がりは、その後の「メジャーリーグサッカー」誕生にもつながっていきました。僕はそういう光景を見て、こちら…というか、我が日本はちょうどバブル崩壊後の沈んだ時期だっただけに、なんだかアメリカとの国力の差みたいなものも、改めてしみじみと感じてしまったのでした。


予選リーグでの出来事


42歳でゴールゲット

前大会(イタリア1990)で旋風を起こしたカメルーンチームですが、その立役者だったロジェミラ選手が、ワールドカップ史上最年長となる「42歳」でゴール決めたことも話題になりました。
そもそもミラ選手は1988年には現役を引退していたのですが、ミラ選手の大ファンであったカメルーンの大統領の強烈な依頼により、ワールドカップの2大会のみ現役を復帰していたのです。


イタリア大会時の38歳というのも高齢でしたが、アメリカ大会時の42歳のゴールゲットは驚異的といわれたものでした。当時、鹿島で現役だったジーコ選手ですら41歳ですから、僕も実に驚いたものです。 
今はスポーツの世界も技術的、科学的、工学的に進化し、その選手寿命というものもだいぶ長くなりました。もし「カズは50過ぎてもまだやっているよ」なんて言っても、当時の人たちは誰も信じなかったことでしょうね。

 
オウンゴール射殺事件

南米予選の好成績から優勝候補の一角まで上げられていたコロンビアが、まさかの一次リーグ敗退となり衝撃を与えました。しかも敗因になったのは、コロンビアのエスコバル選手のオウンゴールによるだったのです。


責任を感じたエスコバル選手は「謝らなければいけない」と、身の危険を心配する仲間(彼らは騒ぎが冷めるまで帰国しないことにしていた)の制止を振り切り帰国し、その直後に、立ち寄ったパブで射殺されてしまったのです。その時、ワールドカップはまだ開催中でした。

このことは「エスコバルの悲劇」として後々まで語り継がれる事となりました。さらにはそれまで「自殺点」と表記されていたゴールが、「オウンゴール」と表記されるようになるきっかけともなりました。

マラドーナに薬物の陽性反応

戦前「アルゼンチンはマラドーナのダイエット次第」と言われていたのですが、そのマラドーナ選手がグッドシェイプで本大会に登場し皆を驚かせました。本人の調子も良く、グループリーグを二連勝したアルゼンチンは、一気に優勝候補の一角に躍り出ました。

しかし二戦目のナイジェリア戦後のドーピング検査で、マラドーナ選手のサンプルから「エフェドリン(興奮剤)」の薬物反応が出て、マラドーナ選手は大会を追放処分になってしまいました。これはどうやら痩せ薬代わりにエフェドリンを使っていたというのが真相のようです。


僕はその報を聞いて、ギリシャ戦ゴール時のマラドーナの選手のことを思い出し、「そういや、あの時はケモノのように興奮していたもんなあ」と感じました。そしてそのテンションでは、大会追放も仕方ないかなと思いましたね。

決勝トーナメントでの出来事

アルゼンチンがルーマニアに苦杯

マラドーナの追放ですっかりチームの士気が下がってしまったアルゼンチンは、決勝トーナメント一回戦でルーマニアと当たりました。

当時、ルーマニアにはゲオルゲ・ハジ選手という飛び抜けた存在のMFがいました。ハジ選手はこの大会絶好調であり、ピッチを縦横無尽に駆け回っておりました。そしてその勢いでルーマニアが、マラドーナ追放で意気消沈しているアルゼンチンを撃破したのです。これはなかなかの番狂わせでした。
最終的にルーマニアはスウェーデンとのPK戦に破れ姿を消しましたが、ハジ選手という存在は僕の心に強く残りました。


ブルガリア オラオラ系ストイチコフ

この大会で台風の目となったのがブルガリアチームでした。そしてチームのエースで、この大会の得点王にもなったストイチコフ選手は、正に野武士のような雰囲気をもった「オラオラ系」の選手でありまして、その粗暴さ故に、逆に人気ものとなっていきました(ワールドカップは基本的に悪童が人気者になるのです)


ブルガリアは決勝トーナメント1回戦で「未来系ゴールキーパー」カンポス選手のいるメキシコに競り勝ち、準々決勝で優勝候補筆頭のドイツと対戦しました。

試合は戦前の予想通り、ドイツの一点リードでハーフタイムを迎えます。その間の控え室では、ドイツのDFコーラー選手の執拗なマークに苛立っていたストイチコフ選手が大爆発し、チームメイトと罵り合いになってしまったのです。それは監督が作戦会議を全くできないほど激しいもので、ブルガリアの選手はアドレナリンが出まくりのまま、後半戦に向かいました。
対するドイツチームはイタリア大会の成功体験のせいで、若返りが成されておりませんでした。それゆえ、この灼熱のアメリカ大会ではコンディションの維持にとても苦労していたのです。蓄積される疲労。結果、アドレナリンでまくりのブルカリアが、ストイチコフを軸にドイツDFを切り裂き、見事に逆転勝利を果たしました。そしてドイツはまたブラジルとの対戦を現実のものにすることが出来ませんでした。

勝者ブルガリア。準決勝はイタリアが相手です。ストイチコフ選手は高らかに宣言しました。

「次の試合はエースとエースの闘いになるだろう。ロベルト・バッジョは俺が倒す!」


イタリア バッジオ土壇場で復活

もともとスロースターターであり、予選リーグは大苦戦するのがデフォルト状態なイタリアチームでしたが、この大会はいきなり初戦のアイルランド戦を落とすなど、特に大苦戦でした。中でもエースのロベルト・バッジョ選手の不調(アキレス腱の故障があった)は深刻であり、一次リーグの終わりには不要論すら巻き上がる状態だったのです。

決勝トーナメント1回戦でイタリアはアフリカの強豪ナイジェリアと対戦します。この試合も大苦戦となり、イタリアはナイジェリアに先制を許してしまいます。そのまま1回戦負けと思われた試合終了直前に、バッジョ選手が起死回生の同点ゴールを決めたのです。
バッジョ選手は延長戦でPKをゲットし、それを自ら決めナイジェリアに逆転勝ちしました。

イタリアはバッジョ選手の復活で波に乗り、続く準々決勝の強豪スペイン戦もバッジョ選手のゴールで勝利します。そして準決勝。今大会の台風の目であり、あのストイチコフ選手のいるブルガリアと対戦する事となったのです。
結果… 試合序盤にバッジョ選手があまりにも華麗な2ゴール決めたのです。守備重視で「カテナチオ(鍵)」という異名があるイタリアが、ワールドカップで2点リードというのは、それはもう勝ちに等しいものでした。


ブルガリアはストイチコフ選手がPKで1点返し意地を見せましたが(ストイチコフ選手はこれで6ゴールで得点王となりました)、イタリアがそのま2対1で勝ち、決勝戦に進出することになりました。
しかし、イタリアは喜んでばかりはいられませんでした。この試合、2ゴール決めたエースのバッジョが右足の肉離れという、あまりにも痛い負傷をしてしまったのです。


ブラジルは「ゆりかごポーズ」で結束 

苦労したイタリアと違い、順当に試合を進めてきたのはブラジルでした。このときのブラジルチームは「ロマーリオ&ベベト」という、他のチームから見たら悪夢のようなツートップが大活躍しました。戦前は両者の不仲が取りざたされていたのですが、W杯期間中にベベット選手の子どもが生まれたことが、ブラジルチームに明るい雰囲気をもたらしていたのです。


しかしそんなブラジルチームが苦境に陥ったのが、決勝トーナメント1回戦のアメリカ戦でした。「独立記念日にサッカー王国ブラジルと対戦」というシチュエーションに燃えるアメリカチームに、ブラジルチームは大苦戦します。しかも前半終了間際に、ブラジルの左サイドバックのレオナルド選手がレッドカードで一発退場してしまうのです。イケイケで攻め立てるアメリカチームに対し、ブラジルチームの焦りは連鎖し、エースのロマーリオ選手も珍しいことに決定機を逃してしまいます。

苦境を脱したのは、やはり
「ロマーリオ&ベベト」でした。後半72分にロマーリオ選手のパスからベベット選手が蹴り込み、しぶといアメリカを振り切ったのでした。そしてそのゴール時の二人の親しげな様子から、ブラジルチームの雰囲気の良さというものも伝わってきたのでした。


その後、ブラジルチームは「実質的な決勝戦」と言われた準々決勝のオランダ戦を死闘の末に、ベテランのブランコ選手の超ロングFK弾で制します。そしてこの試合で2点目のゴールを決めたベベット選手は、生まれたばかりの自分の子どもに対しての「ゆりかご」ポーズを披露したのです。そのポーズは正にブラジルの結束の証となりました。ブラジルは続くスウェーデンとの準決勝をロマーリオ選手のゴールで制し、ついにイタリアとの決勝戦へとコマを進めたのです。



決勝戦



FIFAワールドカップカップ1994アメリカ大会の決勝戦。「ブラジル対イタリア」は、1994年7月14日、アメリカカリフォルニア州のローズボウルスタジアムで行われました。ローズボウルスタジアムはアメリカンフットボールのスーパーボウルの開催地でも有名なところで、9万人の観客収容を誇る大スタジアムでしたが、決勝戦のチケットは大会開始前にすでに売り切れていたそうです。

アイルトン・セナの弔い合戦

試合前のミーティングでGKのタファエル選手が叫びます。

「セナの死で落ち込むブラジル国民を、俺たちの力で元気付けるチャンスが来たんだ!」

そうです。この年の5月にイタリアのイモラサーキットで行われたF1グランプリ サンマリノ大会において、ブラジルの国民的英雄だったF1ドライバー「アイルトンセナ」が、不慮の事故死を遂げていたのでした。


ブラジル代表チーム「セレソン」は「国民を元気付ける!」という思いを胸に、一致団結して決勝戦に臨みました。コンディションは上々です。


バッジョ選手が決勝に登場

バッジョ選手は右足の怪我により決勝当日までチーム練習に参加しませんでした。それゆえ決勝戦への出場に暗雲が立ち込めていたのですが、当日のスターティングラインアップに10番バッジョ選手の名前が記されておりました。


ロマーリオ選手とバッジオ選手。ブラジルとイタリアが遂に対峙し、試合開始のホイッスルが、94194人、超満員札止めのローズボールスタジアムに鳴り響きました。


試合は酷暑の中、消耗戦を様相を示していきました。試合はブラジルチームが攻め、それをイタリアチームが受けてカウンターを狙うという、戦前の予想通りの展開となっていきました。
試合はコンディションの良さからブラジルが攻勢で試合が進むのですが、イタリアのベテランのバレージ選手の神がかり的なディフェンスで、ブラジルのエース、ロマーリオ選手を食い止めていきました。



一方、イタリアのエースのバッジョ選手も右足の怪我は芳しくない様子で、準決勝までに見せた精彩を欠いています。そしてそのまま試合は続き、ワールドカップ決勝戦史上初のPK戦に突入したのです。 

史上初の決勝でのPK戦

異様なムードの中、PK戦に向けて、ブラジルのGKタファエル選手とイタリアのGKパリュウカ選手が肩を組み、笑顔でゴールへと向かっていきました。その光景はとても感動的なものでしたが…両者は雌雄を決しなければいけないのです。

PK戦は両チームの1人目は失敗するという波乱の展開で幕を開けます。そして両チーム、2人目,3人目が落ち着いて決めた後の4人目。蹴る前に明らかに迷いが見えたイタリアのマッサーロ選手がPKを失敗し天を仰ぎます。同じく4人目のブラジルの主将ドゥンガ選手は、マッサーロ選手とは対照的に落ち着いておりました。彼はシュートを見事に決め、ブラジルが1点リードとなりました。イタリアは後が無くなります。

そして運命の5人目、先行のイタリアは遂にエースのバッジョ選手が登場します。バッジョ選手の集中に引き込まれ、一瞬、スタジアムの喧騒がやんだように感じました。


バッジョ選手が蹴ったボールはゴールを大きくそれて、観客席へと消えていきました。その瞬間、単独最多となるワールドカップ4回目の優勝が決定しました。

立ち尽くすバッジョ選手の後ろで、ブラジルチームはアイルトン・セナ選手に捧げる横断幕を手にビクトリーランを始めています。灼熱のローズボウルスタジアムのピッチに、勝者と敗者の明と暗が色濃く刻まれていきました。

熱闘を終えての感想


セレソン完全復活



個人的期は、大ファンであるセレソンがようやく優勝してくれた大会になりました。本文中にも触れましたが、これは同年亡くなったブラジルの英雄アイルトン・セナ選手へ捧げる勝利でもあり、彼の死で落ち込んでいたブラジル国民を力付ける優勝でした。そしてこの優勝でブラジルがW杯歴代優勝回数の単独トップにもなり、サッカー王国の完全復活というものを世界に示したのです。

バッジョのワールドカップ

しかしながら、この大会で僕が…と言うより、みんなの印象に一番残ったのは、言うまでもなくロベルト・バッジョ選手でした。


敗北寸前から奇跡の同点ゴールを放ったナイジェリア戦。「バッジオは俺が倒す」と豪語していたストイチコフを返り討ちにしたブルガリア戦。そして自らのPK失敗でワールドカップを逃した決勝戦…。
 
その「悲劇のヒーロー」ぶりや、小柄でイケメンであるところなど、なんだか実に日本人好みでもありましたね(本人も親日家)。 だから日本ではブラジルファンからイタリアファンに鞍替えした人も多かったのではないかなと思ったりもしています。

当時の自分 

個人的な思い出ですと、当時の僕は大学を卒業して、彫刻の大家にお世話になり始めた時期でした。やりたいこととやるべきことを、もやもやと迷いながらも、なんとかやっていたころです。徒然なるままに思い出しますと、この大会の決勝戦の日(というか翌日)に実家で法事がありまして、僕も前日から泊りがけで帰省していたのですが…朝になっても試合がなかなか終わらず、もう法事どころじゃなくなっていた記憶があります。全く持ってバチ当たりものですね。はい。

おわり



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